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僕とLGBT法案

性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解増進法、通称LGBT理解増進法、が成立しました。

この法案をめぐる特にこの1週間、SNSでその動向を共にする中で、わたしの心はぐちゃぐちゃになりました。まるで道端の吐瀉物のように。焦燥感の中、無力で、苦しかった。しかし法案が成立した今、大袈裟では無く、歴史の転換点に立てたことの喜びと感動、そして少しの不安の中にいます。

「LGBT」のゲイの当事者として、この記念すべき瞬間に何か書いておきたいと思い、ずっと考えていたのですが、うまくまとめられそうも無かったので、時系列で僕の感情の変化を書き留めておきたいと思います。ものすごく長くなり、途中で思いが溢れて止まらなくなるかもしれません。読みづらいと思います。でも今は整理して書くことが無理そうです。


2023年
2月
婚姻の平等について問われた岸田首相は「社会が変わってしまう」と法制化を否定。その後、当時の首相秘書官が「同性婚を認めたら国を捨てる人が出てくる」と主張し、LGBTの人々について「見るのも嫌だ」「隣に住んでいるのも嫌だ」と発言。大きなニュースになった。秘書官は更迭され、岸田首相はLGBTに関する政策に取り組むことを急速にアピールし始める。G7広島サミットが近いことも影響していた。

僕には同性のパートナーがいる。
その頃、出会ってからちょうど10年が経とうとしていた。けれど、10年間一緒に過ごして来たのに、最近まで僕は彼を呼ぶ言葉すら持っていなかった。二人の関係を他人に話すことが無かったからだ。今では「パートナー」と呼ぶことにしているが、まだ慣れずにいる。
僕は30代で、大学を卒業してすぐに彼と出会い、デートをしたり、旅行に行ったり、一緒にご飯を食べたり、一緒に家を借りて暮らしたり、喧嘩したり、仲直りしたり、色んなことを経験してきた。
この関係をもし言葉で表すなら、「家族」なのではないか。
僕はいつしかそう自分の中で考えるようになり、「家族」としての責任を果たす為、必死に、死に物狂いで、彼との関係を繋ぎ止めてきた。名前の無い関係をお互いに確認し合い、誰に承認されることもなく、二人だけで何とか大事に守って育ててきたのである。

そんな折、このニュースを聞いて、はっきり言って僕は大きなショックを受けた。
僕らは社会にとって居てはいけない存在なのか。僕や彼があなた達に何をしたというのか?何もしていない。それどころか、何も望まず、目に触れることもなく、邪魔しないように、隠れて静かに暮らしてきたというのに。いったい何の罪を犯したというの?僕らは日本にいてはいけない犯罪者なのか?
自分の暮らす国の政府によって自分が排除される気持ちがわかるだろうか?その恐怖が想像できるだろうか?


3月
この出来事をきっかけとして、僕は「Kの絵」という作品を小学校で展示することになる。

Kとは私のパートナーであり、彼を描いた10年間のスケッチや油絵をテキストと共に展示した。本当にこの社会は僕を排除したいのか?それを確かめるために展示した。僕のことを慕ってくれている子どもたちは、保護者の方々は、長年お世話になっている先生方は、僕を排除したがっているのか?本当に?

いざ展示する時、本当に怖かった。なんてことないただの絵なのに、と、おかしみを感じながらも、絵をかける手が震えた。しかしそれは杞憂だった。何も問題なく、皆さん絵を真摯に見てくれた。当たり前だ、好きな人を描いただけなんだから。結局、自分が不安に思っているだけで、意外とみんな受け入れてくれるし、人のことなんてそもそもどうでも良かったりする。なんだ、みんな、大丈夫なんだ。僕が心配になっていただけだったんだ。そんな安心を得ると同時に、しかし、言わないと、伝えようとしなければ、人には一生わからないこともある、と大事な気づきを得る体験だった。


4月
両親に初めて自分はゲイだとカミングアウトして、パートナーを実家に連れて行って紹介した。

まずカミングアウトについて、僕は否定的な考えで、自分のセクシャリティを言語化してカテゴライズすることにそもそも抵抗があった。カミングアウトの必要性についても、僕自身はマイノリティとしてずっと生きてきて、セクシャリティは多様なものだという前提を持っていたので、相手のセクシャリティなんて常に曖昧なものだと思っていた。始めから言語化せずとも、相手と本当に親しくなりたいと思い、心から深く知ろうとすれば、自然と明らかになるもの。それを暴いて定義付けするのは人間の豊かさに対するむしろ否定では?とすら思って居た。実際、カミングアウトしている相手は多くはないが皆僕にとって親友と呼べる人ばかりである。それに、そもそもゲイの友人もいるし。深く付き合いたく無い人とはカミングアウトする必要は全然無いわけで。

ただ家族、特に両親へのカミングアウトについては、事情が異なる。
実際問題として、同性愛者に対する偏見や差別感情は依然として根強くある。国の政府の人間から、隣に住んでたら嫌だ、と堂々と言われるくらいです。当然、家族であっても、差別感情を持っているかもしれない。そして、家族に例え偏見が無くても、カミングアウトすれば同性愛者の家族となり、場合によっては僕の家族も差別されることになる。親戚や、地域社会から疎外される。現に政府の人間に、見るのも嫌だ、と言われている。僕の家族も、見るのも嫌だ、と思われかねない。

だから僕は、家族にカミングアウトするならば、僕がもっと人間的に、社会的に成長して、幸せになって、誰に批判されても堂々と歩けるような自己実現を遂げてから、胸を張って幸せだと言える人間になってから、両親に言いたいとずっと考えていた。かわいそうと思われたり、心配されたりすることがないような、強い人間になってから、言いたいと思っていた。決して言いたく無かったわけじゃない。言いたかったけど、差別や偏見に晒されたり、心配をかけたく無かったから、30年間言えなかったのだ。

しかし、もう待ってられない、今、言わないといけない、そう決断した。
きっかけは「エゴイスト」という映画だった。映画の中で、愛した者との別れの際、主人公が葬式に行くシーンがある。彼は恋人の母親とは顔見知りだったが、関係は隠していた。しかし彼は感情を抑えることができず、母親の前で泣き崩れてしまう。恋人の死に際しても、関係を隠さなければならない、偽らなければならない。周囲の人や家族が知らなければ、死ねばそこで二人の関係は一瞬で跡形もなく消える。何にも証拠は残らない。悲しみすら誰とも分かち合えない。僕はそれがとても恐ろしくて、絶対にこんな事態は避けなければならないと思った。

両親へのカミングアウトがうまくいったかどうか、私にはわからない。
ただ、僕が誰を好きで誰を大事に思っているか、それは伝えられたと思う。
私は両親や家族を誇りに思っている。
ありがとう。

パートナー、Kの絵について、カミングアウトについての過去のnote↓


5月
婚姻の平等を求める訴訟のニュースを知る。
結婚の自由をすべての人に、をスローガンに、日本各地の同性カップルが同性間で結婚ができないのは憲法に反すると国に裁判を起こしていた。
名古屋での裁判で、違憲判決が出た。
同性カップルが結婚できないこと、結婚に相当する法的な保護が一切ないこと、これらは、憲法24条違反(個人の尊厳の侵害)、憲法14条1項違反(平等権侵害)であると、判決が出た。

僕は正直言って驚いた。僕たちは、憲法違反レベルの人権侵害を受けていたんだと。そんな状態を国は放置し、僕はそのことに何の疑いも持って居なかったんだと。僕の意識が明確に変わった瞬間だった。
続いて、福岡での判決も違憲状態である、というもの。多くの裁判で、違憲判決が出ていた。これは同性婚が実現できるかもしれない、本当に!!4年前に同性婚が実現した台湾のようになれるのではないか?そんな機運が高まっていくのを感じた。というより、僕の心は舞い上がってしまった。

パートナーに、僕らも結婚出来るかもしれない、と伝える。
反応は冷たかったが、結婚したい!という僕の気持ちをウザいくらいに伝えると、渋々ではあるが、条件付きで結婚の許しを得ることができた。僕は少し不満を感じたが、無理もない、つい先日まで誰も僕らの関係を知らなかったのだ。ようやく僕の両親に話せるようにやっとなったばかりで、彼は家族にもカミングアウトしていないし、結婚なんて想像できる訳がない。それは僕も重々理解していた。けれど、夢を見るくらい僕たちだってしていいはずだ。結婚式で流す曲をあれこれ考えたり。新婚旅行はどこに行こう。友人知人に新しく家族が出来たことを紹介したり。facebookに「既婚」と書いたり。あり得なかった夢。僕はもう頭の中がいっぱいになって。そんな夢を彼にも思い描かせたい、あり得たかも知れない未来について考えてみるだけでいい。それだけでこれから生きていく世界が変わる気がした。

しかし、僕のそんな夢はすぐに打ち砕かれることになる。


6月
LGBT理解増進法について、いよいよ法案成立に向けて各党が具体的な協議を行っていた。与党案、野党案、維新国民案、三つの案で揉めているようだった。SNS、Twitterでは各党の案それぞれの文言の違いや、そもそも法案自体への賛否を巡って、大きな論争が巻き起こっていた。LGBTに対する差別感情の発露や、怖れ、誤解、偏見、それらを扇動するようなツイートも爆発的に増えていた。

そんな中、僕はあるツイートを見かける。
それは同性婚訴訟について触れたもの。

「世界的にLGBTの人権を認める流れがあり、裁判所も違憲判決を出すなどして同性婚を認めざるを得なくなって来ている。しかしLGBT理解増進法が出来れば、裁判所もまずは理解増進からとその判断を保留する可能性がある。」

ツイートを現在確認できないので細部は異なるが、概ねこのような内容だったと思う。
LGBT理解増進法が出来れば、同性婚の法制化を阻害することができる…。
私には全く意味がわからなかった。LGBTへの理解増進が広がれば、やがて皆が平等に生きられる社会になれば、僕らもきっと、皆と同じように結婚して家族になれる、そう願っていたからだ。

信じられなかったのは、このツイートを投稿したのが、LGBT理解増進法の原案を提案した繁内幸治さんという方であったことだ。
どうして?わたしたちのための法案じゃなかったの?なぜ私たちの未来を奪うの?なぜ邪魔をするんだ!!疑念が一気に込み上げてきて、やがてそれは憎しみに変わる。その変化が驚くほど自分でもわかるのだ。そして自分でも制御できないくらいに怒りが膨らんでいく。僕は繁内さんに引用リツイートで絡む形で、憎悪をぶつけ、数々の暴言を吐いてしまった。


2年前から、僕はこのLGBT法案を知っていた。
しかしその時は、「LGBT理解増進法」としてではなく、まず「LGBT平等法」という名前で知り、LGBTの方々が直面している様々な差別解消のために、その成立を求めるSNSでの署名活動を通して、このような法案があり得るのだと、必要な法案なのではないかと、初めて意識をし出した。

性的マイノリティの自殺率は高い。
僕も高校生の頃に自殺未遂をしている。大学生の頃にも。
みんなのように幸せになれる未来が思い描けなかったからだ。それは差別や偏見の問題もあるし、制度の問題もあると思う。結婚して家族を持つことができない。教育で触れられない為に自分のセクシャリティについて知る機会が無い。だから孤立する。こんな好き勝手生きてて、何も一切悩みが無く強そうな僕でさえ、若い頃は人生に絶望し、まともな青春時代を過ごせなかったのです。

僕の暗い青春時代について…↓

しかし今、時代が変わろうとしている。その波を確かに僕は感じていた。

数年前、同性愛嫌悪表現のある映画の公開差し止めを求めた署名活動があった。その映画は同性愛を伝染病のように表現し、同性愛者になってしまうことを恐怖の対象として描いていた。言葉を失うほどの侮蔑表現であった。しかもそれは高校生の物語であり、ティーン向けに作られた映画であった。
この映画の公開差し止め署名を中心になって集めたのは高校生だった。僕は驚いた。僕は10代の頃、死ぬか生きるかという選択しかできなかった。けれど、彼は誇りを持って差別や偏見と戦おうとしている。彼が強いのはもちろんだが、彼の勇気ある行動が支持される社会になってきたのだ。その変化に驚き、この10年ほどで間違いなく社会は変わろうとしている、そのうねりを確かに感じた出来事だった。

彼の勇気に対して、僕はどうだ?
周囲に隠れて嘘をつき続け、馬鹿にされてもヘラヘラ笑って誤魔化し、声を上げている同じマイノリティを無視してきた。社会がどんなに酷くても、同じ仲間とマイノリティとしての喜びを享受して静かに生きていけば良い、僕と世間は元々違う人生を歩んでいるのだから。そう諦めて、達観したフリをして、目を背けていたのだ。
しかし、若い人たちが今まさに変わろうとしているのを見て、何もしないのか?何も思わないのか?自分が情けないと感じないのか?

それから、僕の意識は少しずつ変わっていった。
怖がらずに自分のことを伝えよう。嫌なものは嫌と言い、自分が好きなもの、したいこと、なりたいことを恥ずかしがらずに表現しよう。
まず出来るところから自分を変えて、そして、そんなことが当たり前になるように、若いこれからの人たちを応援したい。良い未来をつくりたい。心からそう思うようになってきたのだ。

「LGBT平等法」はそんな僕の心を捉えた。
法律を作れば意識が変わるはずだ。
差別を禁止すれば平等に扱われるはずだ。
そうなれば、婚姻の平等も、同性婚も、教育の問題も、様々な構造が自ずと変わっていくはずだ。
LGBT平等法は、僕らがありのままで生きられる社会のために、最初の基礎の土台となってくれるはず。
そんな期待を感じていたのです。

2年前のこの時、まさに国会提出に向けてLGBT法案が検討されている最中であった。その中で、ある自民党議員がLGBTに関して「種の保存に背く」と発言。大きな批判、論争が巻き起こり、広く国民の関心が集まった。しかし結局、自民党の保守の反対により法案は見送りとなり、平等法どころか、元々の理解増進法ですら、一旦白紙に戻ることになった。
そして2023年、再び機運が高まり、いよいよ成立に向けて動き始めていた。


私は、まず、「理解増進」という言葉に違和感、不信感を持っていた。
平等法、差別禁止では無く、理解増進。

理解を求めても、ルールだから、と差別構造が変わらないのでは?と感じていた。同性婚の実現や、性の多様性についての教育、その他様々な課題は、多数派の性のあり方に基づいたマイノリティを無視する構造によって阻害されてきた。これらは「理解」「気持ち」の問題で解決することだろうか?

まず前提として、僕らマイノリティは、多数派とは決定的に属性が違っている。どの性を愛して、自分をどの性と捉えるか、あるいはその度合い。それは、自分の意志では変えられず、様々な複合的な要因で、そうなるべくしてそうなっている。日本に生まれ育ったものが、日本人というアイデンティティを持ちたくなくても持ってしまうように、それは他人が簡単に変えられるものじゃない。

そのような認識に立てば、同性愛者が同性と結婚したり家族になれず社会の構成単位として認識されず法的な保護も無いことは、個人の尊厳が奪われた状態、人権侵害であり、気持ちでどうこうできる話では無い。実際に同性婚訴訟でもそう判断され違憲判決が出ている。

僕は男が好きだからパートナーを好きになり一緒に過ごしてきたわけで。女の人を好きになって結婚して子どもを作れと言われても無理なんです。そんな僕の気持ちをいくら周りが理解してくれたからって、お礼は言うけれども、じゃあ実際に結婚できないじゃないか。結婚できないことは差別であり、それを変えない限り、気持ちではどうすることもできないんです。
それは、トランスジェンダーや他の様々なマイノリティの方が抱えてる問題だって同じことだと思う。

「理解増進」ではなく「差別禁止」を!
そして皆が平等にありのままで生きられる社会の実現を…!!
僕はそんな思いを胸にLGBT法案の行末を見守っていた。
だから、「理解増進」の提案者である繁内さんが、「理解増進」であれば「差別禁止」ではないから既存の社会構造を変えるわけでは無い、と話されているのを発見してブチ切れてしまったのだ。
そんなの全く意味のない法案じゃないか!!
差別温存法案じゃないか!!!!と。

そうこうしている内に僕の気持ちは置き去りになったまま、LGBT法案は「理解増進」という形で、しかも文言の変更や様々な留意事項が書き加えられ、紆余曲折を経て成立してしまった。

差別禁止を求めていたリベラルからは落胆の声や、保守からは未だ法案そのものへの反対の声、中身は異なれどマイナスの意見ばかりがTwitterでは散見された。

そんな中、僕は繁内さんについて紹介したある記事を見つける。
繁内さんがどのような思いでこの理解増進法に携わっていたか、神戸新聞が法案成立のタイミングで記事を公開していた。

記事はこちら。ぜひ読んでください。

新しい事実を知った。
LGBT法案は、実は2021年よりもっと前、2016年に繁内さんが提案者となり自民党が原型を作っていたこと。
それは元から「差別禁止」ではなく「理解増進」であったこと。
そして、なぜ「理解増進」なのか、繁内さんの想いについて、知ることができた。

僕はそれを読んで、繁内さんの取り組んでこられた事に、同じ当事者として共感を覚えた。それは、両親にカミングアウトした僕の経験に重なって見えたからだ。


僕は自分がゲイである事に誇りを持っている、ゲイとして生きる喜びを感じている。それどころか、異性愛者など、決められたレールの上を走っているだけ、と見下す気持ちすらある。パートナーとの関係は、ゲイである僕と彼にしか築けない尊いものだと思っている。ゲイでない自分などあり得ない、僕はゲイである自分が大好きなのだ。

しかし、自分の属性を両親に打ち明ける時は、そんな自意識はどこかへ吹き飛んで、全く役に立たなかった。

まず、ごめんなさい、から入るのだ。

みんなと同じように普通に生きられなくてごめんなさい。
嘘をついていてごめんなさい。
結婚できなくて、子どもができなくてごめんなさい。
まともに生きられない僕のことを許してください。お母さんやお父さんも、まともじゃないと言われるかもしれない。みんなを苦しませるかもしれない。でも僕はどうすることもできない。本当にごめんなさい。

リベラルな人権派は、こう言うだろう。
そんなのおかしい、貴方が謝る必要はない。みんな個人がありのままに自由に生きて良い。誰しも平等に人権があり憲法で保障されているのだから、差別する方が悪いだけではないか。

SNSで顔も見たことのない差別主義者を相手にするならば、僕もそう考えると思う。しかし、自分に近ければ近いほど、家族や両親に対して、人権や差別の話から入ることなんて、僕にはとてもできなかった。

まずはとにかく自分のことを真っ直ぐきちんと説明して、「お伺い」を立てる。こんな僕だけど、大丈夫ですか?気持ち悪くないですか?一緒にいてもいいですか?
カミングアウトとは、当事者にとって、常にそういうものだった。

大学生の頃に親友に打ち明けた時も、僕は弱々しく涙を流しながら気持ちを吐露するのみで、堂々と当たり前のように告げるなんて、そんなこと出来る訳がなかった。常に不安や危険と隣り合わせで、それでもリスクを取って少しずつ仲間を増やして、自分の居場所を作っていく。それが、当事者にとっての本当にリアリティのあるカミングアウト、つまり、「理解増進」だったのだ。

僕はそれがマジョリティに従属する情けないことだとは、全く思わない。
たしかに弱いことだとは思う。けれど、弱さを理解しているからこその、マイノリティにしか出来ない、しなやかで勇気のある行動だ。そうでなければ、どうして人と対話することが出来るだろう。

繁内さんは1961年生まれの62歳。繁内さんが生きてこられた時代は僕らの時代よりももっと差別や偏見が強かったはずだ。
かつて辞書に同性愛は異常性癖と書かれていた。ネットやSNSのない時代では同じマイノリティ同士で連帯することも難しかったはず。そんな時代の中、多数派が何もかも決める構造の中、着実に社会を変えるために、差別禁止からではなく、まずは理解増進を、と地道に取り組みを続けて来られたのだ。

僕は今までの自分が恥ずかしくなった。差別を禁止すればそれでいい、それで全部が変わる、平等に切り替わる、そんな短絡的な考えで、SNSで右往左往するばかりで、ただ感情を発露していた自分がものすごく子供に思えた。


成立したLGBT法案を改めて自分でじっくり見てみた。
実は全文を読むのは初めてのことだった。

正式名称は、
「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律案」

全文はこちらです。
10分もあれば読める内容です。まずは読んでください。

以下、条文から定義と基本理念を抜粋する。


「性的指向」とは、恋愛感情又は性的感情の対象となる性別についての指向をいう。
「ジェンダーアイデンティティ」とは、自己の属する性別についての認識に関するその同一性の有無又は程度に係る意識をいう。

性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する施策は、
全ての国民が、その性的指向又はジェンダーアイデンティティにかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのっとり、
性的指向及びジェンダーアイデンティティを理由とする不当な差別はあってはならないものであるとの認識の下に、
相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを旨として行われなければならない。


以上、抜粋終わり。

性的指向、ジェンダーアイデンティティという概念がはじめて国の法律で明文化され、それらに関係なく個人の尊厳が守られると、性的マイノリティへの法的な保護が条文化されたことに、僕は、深い喜び、感動を感じた。

僕たちは、病気や、変態、異常者ではなく、性的指向とジェンダーアイデンティティにおいて、ある特定の属性や方向を持っているだけに過ぎなかったのだ。
ここには、「LGBT」や「性的マイノリティ」「多数派」と言った言葉すら一切書かれていない。
なぜなら、「性的指向」「ジェンダーアイデンティティ」は、マイノリティか多数派かどうかに関係なく、すべての人々が持っている人間の性質そのものに過ぎないからだ。これは、全ての人の性と愛について、すべてのひとが自覚的に捉えること、そしてその多様性を謳うものだからだ。

これはそもそも「LGBT」法案では無かったのだ。
マイノリティの権利を殊更守るためのものでは無かったのだ。
ただ、全ての人が持つ性質について理解を深め、違いを認め合い、尊重すること、そのための理念を謳っているだけだったのだ。

ただし、実際には、「差別禁止」ではなく「理解増進」である理由には、保守への配慮が明確にあるだろう。
同性婚や、トランスジェンダーの性別変更要件、性の多様性についての教育などの課題は、「差別禁止」に則れば具体的に変えていかざるを得ない。そうなれば保守の反発は避けられない。「理解増進」であれば、性的指向やジェンダーアイデンティティを認めて理解する、に留まるわけで、それら政治的な問題は棚上げし先送りにすることができる。例え、性的指向やジェンダーアイデンティティを理由に不当に差別されても、それは理解が増進されていないから、というだけで、法的な罰則も何も無いのだから。

要するに、これはほとんど実際的な効力が無い法案なのだ。

けれども「理解増進」を作ったのは、非常に大きな意味がある。
それは性的指向とジェンダーアイデンティティという概念、人の性質を、国が公に認めるということだ。それによって、性的マイノリティは公的に存在が認められた事になり、すべての国民が多様な性を持っていることが初めて可視化されたことになる。
しかしこれは、世界的な動向を見ればあまりに遅い可視化である。
地方レベルでは既に、多くの自治体でパートナーシップ条例が乱立し、民間団体によってLGBT関連の啓発イベントも頻繁に開催され、小学校での多様な性のあり方の教育も当たり前になりつつある。
そんな状況を放置して、国として何も指針を示さずにいられる訳がない。

保守の言葉をあえて借りるなら、社会が左翼活動家によって混乱させられている、だから理解増進法で国が率先して指揮を取り正さなければならない、と言う訳だ。しかし実際は、社会が変わっていることを保守勢力はひたすらに無視し続けてきた、その結果が、今の社会状況と、この理念法案のあまりに基礎的な土台との乖離なのだ。本来であれば10年前には出来ていないといけない法案だったと思う。


僕は繁内さんの活動や想いを知って、LGBT法案の成り立ちを捉え直し、改めて当事者として、肯定的にこの法案と向き合う事に決めた。

初めて友達にゲイだとカミングアウトした時、パートナーのことを両親にカミングアウトした時、その気持ちを思い出し、勇気を持って、身近な人にまずは自分から向き合っていく事に決めたのだ。

LGBT理解増進法が成立してからすぐ、僕は職場の人にカミングアウトした。
ずっと嘘をつくのが嫌だったし、もっと深い話がしたかったから。自分らしく会話がしたかったから。怖かったけれど、僕には理解増進法がついてくれている。拒絶されても自己責任で誰にも文句は言えないが、そんな時は国民への理解が足りてなかったのだと、国もその責任を少し負ってくれるのだ。気分的に。そう、気分でしかない。けれど勇気は出るじゃないか。だから心配しなくてもいいんだ。私たちの存在や性質を国は認めてくれているんだから。だからこそ、僕も責任を持って、人と向き合い、リスクを恐れず、理解増進ッ!!の心持ちで、対話をしていこう。
人権や法律に任せるのでは無く、僕も国と一緒になって、みんなで理解増進していけばいい。
今なら僕はそう思う。


LGBT理解増進法が成立するタイミングで、繁内さんとTwitterスペースでお話しすることができた。
直接暴言についてのお詫びもお伝えする事ができた。繁内さんは僕の不安な想いについて丁寧に向き合って下さった。保守の方々や、様々な思想、価値観を持った人々の不安にも真摯に向き合っていらっしゃった。
スペースには保守系の思想を持つゲイの方がいて、僕の同性婚に対する想いやパートナーとのことを話すと、親切に具体的なアドバイスを寄せて下さった。

LGBTの当事者と言えども、様々な価値観を持った方々がいる。
年代も違うし、好みも違う。社会的なステータスや、イデオロギーも全く違う。と言うより、そもそも政治になんて興味がない人がほとんどである。当然だ。LGBTという言葉すら無かった時代から、当事者は現実の暮らしの中で様々に生きてきたのだから。

同性婚を求めて心から平等になれる未来を願って活動をしている人もいれば、マイノリティとしての誇りを胸に世間とは違う道を同じ仲間と歩むことを好む者もいる。
僕は両者の気持ちがどちらもよく分かる。それぞれ、スティグマに対する受け入れ方が異なるだけだ。どちらも分かるから、どちらも今は選べない。

スティグマについて、同性愛嫌悪を内面化しているゲイの話↓

大事なのは、そんな、本当に多様な僕らが暮らしているということ。
それを伝えていく事だと思う。みんなが気持ちを正直に伝えていく事だと思う。自分がどうなりたいか、これからの世代にどうなってほしいか、考えていくことだと思う。あとは政治が正しく判断する事だ。それを信じるしか、少なくとも今の僕には出来ない。しかしそれで十分だ。

けれども、僕は、やっぱり、結婚したい!!!!(でも、もし実現しても恥ずかしいからすぐには出来ないけど…。あとは相手のカミングアウトの問題もあるし、、、、。うん、だから矛盾がいっぱいあるのだけど、でも何度だって夢を見てみたい。)


これから社会が変わっていくことに大きな希望を持っている。
歩みは遅いかもしれないけど、何世代かかってでも変わっていくと希望を感じている。

終わり。

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