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15年間の野球人生で学んだこと ~松坂大輔になることを諦めきれなかった話~ 前編

僕は小学2年生から大学4年生まで、野球に取り組んできました。少年野球、中学野球、高校野球、大学野球と、それぞれのフェーズで、チームが勝てるように、全力を尽くしてきたつもりです。

エースピッチャー・キャプテンとして試合に出ることもあれば、野球エリート達との圧倒的な力の差を感じて、裏方としてチームを支えたこともありました。

これまで28年間生きてきた上で、僕の価値観、人格の8割は野球での経験から形成されていると思っています。良くも悪くも、です。

【なぜこのタイミングでこの記事を書くのか?】

2020年3月に初めての転職をし、僕の人生での大きな転機を迎えました。転職活動のタイミングで、いわゆる「自己分析」らしきものをし、「強み・弱みは?」「テンションが上がるのってどんな時?」みたいなことを、過去の人生をもとに、色々と考えた「つもり」でした。
でもよくよく考えてみたら、言ってみればそれは転職活動を上手く進めるために自分の長所の「裏付けをするための自己分析」だったように思います。
転職してから1ヶ月半程度経ち、充実した日々を過ごせている(しかも、気づいたら30歳手前に差し掛かっていた)今、自分がこれまでどんな経験をしてきて、どんな人間なのかを良いことも悪いことも含めて受け入れちゃおう!と。
最近はいい意味でゆとりが出てきて、自分の苦手・弱いと思っている部分も素直に受け入れられるようになってきたこともあり。

それから新たな目標に向かって、筋道を立てて頑張っていこうと、思ったわけであります。

さてさて、ここから、野球人生をそれぞれのフェーズで振り返り、どんな過去経験から今の僕が形成されたのかを書いていきます。

先に結論を言うと、野球を通して学んだ大部分は以下の2つです。
「自分を客観視し、自分自身を受容することの大切さ」
「自分の役割に誇りをもち、チームで何かを成し遂げる喜び」
徐々にキーマンであり、題名にもある松坂大輔さんに触れながら話を進めていきます。

(注) 時折、ふざけている描写もありますが、ノンフィクションです。尊敬している野球選手も出てきますが、敬称略で。

【少年野球チームに入るまで】

小学2年生の時、僕は野球を始めた。生まれつき左利きだったこともあり、近所に住んでいた熱血巨人ファンだった叔父が「左利きなら絶対野球をするべきや!巨人の星・星飛雄馬を目指せ!おれが星一徹になったる!」と、よくわからない勧めもあり、僕は野球を始めた。

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星飛雄馬・一徹が実在しないことを、後から知った。

時は1999年。そう、松坂大輔が鳴り物入りで西武ライオンズに入団した年だ。高卒ルーキーらしからぬ剛速球、高速スライダー、ふてぶてしいまでのマウンド捌きを武器に、松坂フィーバーが日本中に吹き荒れた年だ。18歳の松坂が日本に大きな感動を与えていることは野球をよく知らない僕でもわかった。そして僕は松坂に惚れ、西武ライオンズファンになった。

デビュー戦で片岡(日本ハム)から155km/hのストレートで三振を奪ったシーンは、VHSが擦り切れるくらい見た。

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地元の三重県はいわば、中日ドラゴンズのお膝元。ほとんどの男子小学生がドラゴンズの帽子を被って通学する中、僕は親に懇願し、西武ライオンズの帽子を買ってもらった。近所のジャスコで売っているのは中日、阪神、巨人の帽子ばかり。親が名古屋まで行って買ってきてくれた。親に感謝だ。

近くの公園で、僕と叔父の息子(2歳下のいとこ)、星一徹(叔父)の3人で練習をした。星一徹は鬼のように厳しかった。たまに公園で一緒になる野球親子に「西武」と名付けられ、ちょっぴり嬉しかった。

星一徹から「あそこの公園を100周走ったら、松坂みたいになれるぞ!」と指令を受けた翌日、放課後友達からのゲーム(スーパーファミコンのカービー)の誘いも断り、公園に行き、1人黙々と走り始めた。…20周くらいで飽きてしまい、リタイア。
今思うと同じことを繰り返しする退屈なことはこの頃から苦手だったのかもな。

さすがにそろそろ公園での少人数での野球に飽きてきた僕は、「野球チームに入りたい!」と親に頼んだ。自分が通っていた小学校には野球部がなかったが、親が隣の小学校で活動している野球部を見つけてきてくれた。これが壮絶な少年野球人生の始まりだった。

【少年野球チームでの日々 ~修行のような4年間~】

体験入部の初日、監督・コーチ・先輩はめちゃくちゃ優しかった。まさにお客様状態。バッティング練習で空振りしても褒められる。エラーしても「ナイガッ!!(ナイスガッツの意)」と褒めてくれる。しかもユニフォームは西武と同じ、水色の帽子とアンダーシャツ。「僕はここで松坂になるんだ!」と入部を即決した。

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(こんな感じ。この時の西武のユニフォームは今でも大好き。)

入部届を出した翌日から、環境は一変した。先輩達は引き続き優しかったが、監督・コーチがまさに鬼だった。星一徹よりも厳しい。そしてその日から修行のような日々が始まった。(※20年前の話なので当然今はマイルドなっています。)

・朝6時から学校に行く前に毎日朝練。冬場の朝練は一切ボールを触らずにひたすら1時間の走り込み。
・年間休日20日くらい。土曜日・日曜日は9時~18時まで練習or試合。雨が降った日もコーチのそろばん教室にて野球のミーティング。ミーティングでは監督・コーチが昔話や人生論などを説いてくれて、これはこれで楽しかった。当然居眠りなどは許されないが。
・真夏の練習でも水が飲めない。練習終わりにたまに配られるポカリスエットがめちゃくちゃ美味かった。
・練習でミス(エラー、与四球、チャンスで凡打など)をしようものなら厳しい愛情のこもった指導。
・ピッチャーをしていた僕は走り込みを課せられ、練習中はずっと走っていた。そして気づいたら小学校のマラソン大会で優勝できるようになっていた。
・キャプテンを任された僕は、自分が関わっていないことでもチームで不手際があれば矢面に立って厳しい指導を受けた。

当時は、怒られるのがめちゃくちゃ怖くて、監督・コーチの顔色を見ながら野球をしていた。
漫画「MAJOR」を知っている方ならわかるかと思うが、戸塚西リトルの宇佐見球太状態だった。

そして野球うんぬん以上に「礼儀作法・協調性」に厳しかった。
何かを頂くときは手袋は取って素手で受け取ること。人の前を横切るときは帽子を取って頭を下げること。迷惑を掛けたら誠意をもって謝ること。困っているメンバーがいれば手を差し伸べること。そして、挨拶。

とにかく、事あるごとに全力で発声していた。(当然、声が小さければOKが出るまでやり直し)
「おざっす!!(おはようございます)」「んちは!!」「あっした!!」「せっ、さあらーっ!!(先生、さようなら)」「すーせんっ!!(エラーをした時に味方ピッチャーにすいません。打撃練習で見逃し三振をした時、味方の打撃投手に向かって、ストライクを投げてくれたのにバットを振らなくてすいません。)」
練習の癖で、試合で見逃し三振をした時、対戦相手のピッチャーに向かって「すーせんっ!!」と言う奇妙な事態も多発。
このチームの厳しさは鈴鹿市だけでなく、三重県内でも有名だったのだと後から知った。

厳しさ故、他のチームよりも部員少なかったが(毎年全学年合わせて12~15人位)、厳しい指導・環境のおかげで鈴鹿市の大会はほとんど優勝できた。
当時、身体が小さかった僕は松坂の剛速球とは程遠く、球が遅かった。けれど、コントロールと投球術、走り込みで身についたスタミナで、1日2試合が当たり前のトーナメントを勝ち上がることができた。
いつかは身体も大きくなり、松坂のような剛速球が投げられることを夢見て、辛いことばかりだったが、懸命に喰らいついた日々だった。

<少年野球を通して学んだこと>
今振り返っても、正直この時代に戻りたくはないけど、、、
他チームと比べても圧倒的な練習量とあれだけ厳しい指導を乗り越えてきたから、「負けるはずがない」と根拠のない自信があった。そしてそれくらい喰らいついて、本気でやってきたからこそ、1試合の負けや、上手くいかないことが猛烈に悔しかった。
最初は怒られないことばかりを考えていたが、いつしか、悔しい思いをしないために「どうしたら野球が上手くなれるか?」「試合に勝てるのか?」を考え、野球に取り組むようになっていた。
そして、チームの誰かの不手際が連帯責任で叱られる環境だったからこそ、チームメートの動きや感情の機微(今でこそちょっとカッコつけた表現だけど、当時はメンバーが野球に本気で取り組んでいるか?くらいだったが、、、)に目を向けられるようになった。
当時の監督・コーチ(現在、御年60歳と85歳くらい)には、僕の人生の礎を作っていただき、すごく感謝している。今では一緒にゴルフに行くような関係になれたことが、嬉しい。

●学んだこと・身についたことのまとめ●
・人として当たり前のこと。礼儀作法。「誠意をもって謝罪すること」「挨拶・御礼を伝えること」
・本気になればなるほど、上手くいかなかった時、悔しい。だからこそ、より本気で取り組む。そして本気になって取り組めば、それだけでも自信になる。
・人の顔色を伺うこと(笑)。どうすれば人は怒るのか&怒らせないのかを気にするようになった。
・思い悩んでいるメンバーに自然と気が向くようになった。

【中学野球部での日々 ~慢心があった3年間~】

修行のような4年間を終えた僕は中学校の軟式野球部に入部した。硬式ボールを扱うクラブチームの選択肢もあったが、まだ身体が小さく故障のリスクが大きかったため、部活動での野球を選んだ。
ちなみにユニフォームは愛工大名電高校をモデルにしており、カッコ良かった。

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中学時代は今振り返ると「慢心があり、後悔の3年間」だった。

中学野球部は少年野球チームと真逆の天国のような環境だった。
「MAJOR」で言うと、まさに海堂高校の夢島から2軍の厚木の寮に入ったくらいの変化。
厳しい指導者はおらず、決められた緩めの練習メニューをこなし、土日は半日で練習を終える。
その環境に甘えてしまった。しかも少年野球チームでの経験値の貯金、過信があり、「自分の練習法や野球のスタイルが正しい」と他人のアドバイスにも聞く耳持たずだった。この頃はただただ球のスピードを速くするための練習をしていた。いつかは身体も大きくなり、松坂のような剛速球が投げられることを夢見て(2回目)。

それでも先輩達のレベルは高く、2年生の時には2番手ピッチャーとして、全国大会に出場することができた。1学年上の先輩に、中学生にして135km/hの速球を投げ、全国からも注目される大エースがいたので、ほとんど試合で登板することはなかったが。。。
(余談だが同じ大会に元巨人の笠原将生選手(明徳義塾中学校)が出ており、めちゃくちゃ身体がでかかった)

先輩の大エースが引退し、最上級生になってからは僕がエースになったが、ことごとく試合に勝てなくなった。
簡単に言うと、これまで球が遅く、変化球のコントロールも良かったため抑えることができていた投球スタイルが、身体が大きくなるにつれて、球のスピードが速くなり、相手バッターにとって打ちやすいスピードになってしまっていた。
もっとスピードが速くなる投球フォームに変えようとするも、それが原因でコントロールも悪くなり、変化球も曲がらなくなってしまった。まさに「短所を改善しようとした結果、長所もなくなってしまった」状態だった。
監督は投球スタイルの改善を提案しようとしてくれていたが、自分の理想の投球スタイルに固執し、ずっと聞く耳をもたなかった。結果的に最上級生になってからは1度も大会で優勝することができず、「もっと周りのアドバイスに耳を傾けておけばよかった」と思い、強く後悔したのは最後の大会で負けてからだった。

<中学野球を通して学んだこと>
今になってわかるが、当時は少年野球チームでの経験が過信となり、天上天下唯我独尊状態だった。まさに仙道と1on1をし、沢北と対戦するまでの流川状態。流川ほどの実力もないのに。
人のアドバイスに耳を傾けなければとは思ったが、それでも当時はまだ、スピードへの憧れは捨てきれずにいた。

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●学んだこと・身についたことのまとめ●
・現状の自分の姿を客観的に捉え、素直に周りの意見に耳を傾けることの重要さ。(中学時代の学びはこれに尽きる)

【後編(高校野球・大学野球)に向けて】

前編を読んでいただきありがとうございました。改めて、自分で読み返しながらも、「まとまりのない内容だなあ」と思いつつも、野球を通して学ばせてもらったことはここに書ききれないくらいあり、楽しく充実した日々だったなあと思えています。何より、野球をするきっかけをくれた「星一徹(叔父)」「松坂大輔さん」「両親」には感謝しています。

後編では「最後まで自信を持てきれず、逃げ道を作り続けた高校野球編」と「新しい野球の楽しみ方に出会うことができた大学野球編」を書きたいと思います。

ぜひ次回も読んでいただけると嬉しいです。

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