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Chennai Days - 2

路線バスに乗ってみようと思った。

市内には、オートリクシャーという小型の三輪タクシーが縦横無尽に行き交っている。乗合いでも利用できるし、チャーターしてもいい。ちょっとした買い物くらいの距離なら、100円もかからないくらいの手軽な乗り物である。
しかし、路線バスはそれよりもさらに安い。小さなオートリクシャーと比べて、バスの移動距離は長いが、それでも運賃は数十円ほどである。オートリクシャーで行くにはちょっと遠いところに出かけたいと思った時、路線バスの利用も選択肢に入れることができれば、行動範囲が広がることになる。
また、市内から車で2時間以上離れたところにある観光地へも、乗り換えなしで1本の路線バスで行けることが判明したため、ますますバスの魅力は高まっていくのだ。
少なくともあと2年はインドに住むつもりであるため、早いうちに路線バスの乗り方を習得しておきたいと思った。

前後のドアを全開にして大通りを疾走するオンボロバスは、乗車のハードルが恐ろしく高い乗り物であるが、実は外国人でも簡単に乗り方を調べられる方法がある。
Googleマップである。
目的地への経路を検索する際、公共交通機関の利用を選択すれば、乗り降りをするバススタンドとバスの経路が表示されるのだ。一見、無秩序に走っているかのように見えるインドの路線バスでも、しっかりと運行規則に従っていることがわかる。
さらにこのアプリのすごいところは、乗るべきバスの番号や通過駅、料金がわかるところだ。
ぼくはGoogleマップに表示された情報をよく読んで、バス番号の「119」と降車するバス停の名前「seevaram」をしっかり頭に叩き込んだ。地図によれば、乗車時間は25分ほどだが、運賃はたったの8ルピー(12円)である。すぐに代金を払えるように、10ルピー札を右のポケットに捩じ込んで、バス停に向かった。

バス停には5台ほどのバスが停まっていた。
車体の前方まで回り込んで、1台ずつ路線番号を確認したが、ぼくが乗車する119番は見当たらなかった。
人々に混じってバス停の周りをうろうろしていると、間も無く目当てのバスはやってきた。
開け放たれた後ろのドアから飛び乗ると、車内は思いの外すいていた。ぼくは一番後ろの席に陣取って、一緒に乗車した人の動きをよく観察した。車内で運賃を精算するということは事前に調べていたが、どのようなシステムになっているのかは知らなかったからだ。
すると、ドアの近くに車掌のような男が座っていて、乗客にチケットのようなものを配っているのだった。ぼくも他の客に混じって手を差し出すと、彼はこちらを見ながら何か言った。現地の言葉だったので何を言っているかは不明だが、状況的に行き先を訪ねているのだろう。ぼくは降車駅の名前を口にした。すると、男はバススタンドの名前を復唱して、大袈裟に何かを訴えかける。どうやら、このバスはそこには停まらないらしい。英語を話せる乗客が通訳をしてくれたのだが、彼の話をよく聞くと、ぼくは反対方向へ向かうバスに乗ってしまったのだった。
助け舟を出してくれたのは、きちんとした身なりをした銀髪の紳士だった。
正しいバスに乗り換えるには、次の停車場で降りなければいけない。車掌は胸ポケットに入れていたホイッスルを鳴らして、運転手に合図をした。
バスが停車すると、紳士はぼくと一緒に降車した。一駅分しかバスに乗っていなので、彼の本来の目的地ではないはずだ。親切心から、ぼくを正しいバス停まで送り届けてくれるようだった。バスを降りる時、運賃はいくら払えばいいか尋ねると、車掌は笑いながら「いらないよ」と手を振った。
バスを降りると、紳士は「ついて来い」とぼくに手招きをした。彼の後ろについて道路を渡ると、人が集まっている場所があった。そこが、反対方向に向かうバス停だった。
紳士はそばにいる人を捕まえて、「こいつはseevaramで降りるから、面倒を見てやってくれ」と声をかけた。サリーを着たおばさんが「任せなさい」とばかりに大きく頷くと、伝達が済んだ紳士は道路の反対側へと去っていった。やはり、ぼくのためにわざわざバスを降りてくれたのだった。

ぼくが本来乗るべきだったバスはすぐにやって来た。
おばさんに急かされてバスに乗り込むと、先ほどとは違って車内は満員だった。他の乗客に倣って、天井から伸びていた鉄パイプを掴んでバランスをとった。
しばらく進むと、誰かがぼくの肩をつついた。座席から立ち上がった男で、「自分はここで降りるから、座りなさい」というようなことを言っていた。車内は依然として混み合っていて、立っている乗客の中には年配の方や女性も含まれていた。ぼくが彼らに席を譲ろうとすると、周りの人たちは「いいから、お前が座れ」と手で催促するのだった。先ほどの紳士といい、どこまでも親切な人たちである。ぼくは彼らの言葉に甘えて、空いた座席に腰を下ろした。
外を眺めていると、隣に学生風のお兄さんが腰掛けた。後ろに座っていたおばさんが、ぼくの肩を叩く。「彼もseevaramまで行くから、一緒に降りなさい」。学生風の青年の顔を見ると、インド人がよくやるように、彼は微かに顔を横に振った。
バスは、クラクションを駆使しながら大通りを疾走する。窓から吹き込む微風が気持ちよかった。見た目の割に、バスの乗り心地は悪くなかった。右に左に車線を替えながら走っているものの、それなりに安定感はあった。

20分ほどバスに揺られていただろうか。隣のお兄さんが「降りるぞ」と、ぼくに合図した。バスが停車したわずかな時間で、ぼくたちは開きっぱなしのドアから飛び降りた。
立ち去るお兄さんの背中を見て、ぼくは重大なことに気づいた。
運賃を支払っていないのだ。
お兄さんはバスを降りる時、お金を払っていない。ということは、バスに乗っている間に支払いは済ませていたということで、同様にぼくの運賃も誰かが払ってくれたのだろう。おばさんかもしれないし、お兄さんかもしれない。
最初の紳士にしろ、サリーのおばさんにしろ、学生風の青年にしろ、きちんとした身なりをしていたとはいえ、おそらくぼくの方が経済的には恵まれているはずだ。彼らもそのことは分かっていただろう。しかし、そんなことはお構いなしに、ぼくのバス代を肩代わりしてくれたのだ。しかも、ぼくに悟られないようなさりげなさで、だ。
なんてスマートで親切な人たちなんだろう。ぼくは胸が熱くなってくるのを感じた。

バススタンドの脇に、右手を差し出して佇む女性がいた。ぼくはバス代として用意していた10ルピー札を、黙って差し出された彼女の右手にそっと置いた。
困っている異邦人を助けてくれた親切なインド人たちに対する、ぼくなりの恩返しのつもりだった。


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