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スーパーマウントモラハラマン

何を隠そう、本投稿のタイトル「スーパーマウントモラハラマン」とは若い頃の僕のことだ。「正義」という言葉が大好きで自分が正しいと信じて疑わずゆえに自分と異なる意見はすべて「悪」「誤り」とみなし、高圧的な態度と強引な理屈を組み合わせて相手を屈服させてきた。

「きよひこって勧善懲悪だよな」と冗談交じりで友人に言われた言葉を、当時の僕はまんざらでもない気分で受け取っていたが、あれは今から思えば皮肉交じりの言葉だったのかもしれない。我ながらあんな生き方でよく人間関係破綻しなかったよなと不思議でならない。

いや、厳密に言うと一部の人間関係は破綻した。それは当時の僕にとって最も大切にすべき人だった。その人を失って初めて「僕は正しくない生き方をしてきたのかもしれない」「いつどこで何を間違えたのだろう」と自省する日々が始まった。その謎解きにかけた期間はゆうに10年は超えるだろう。もしかしたら今もまだその道中にいるのかもしれない。

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近年、コンプライアンスという言葉は既に定着しており、一般企業で働く人間は「ハラスメント行為」に対して敏感になっている。でもそれって本当にハラスメント抑止に繋がっているのかなと思うと微妙だ。コンプライアンス研修で「以下の行為はハラスメントに該当するか」という出題で挙げられる事例は極端過ぎるのだ。「上司が部下に死ねと言った」とか。こんな出題間違える奴いる?小学生でもわかるだろこんなの。

こういう教育の仕方だと逆に「死ね」とか「バカ」とか言わなければハラスメントに該当しないという認識を助長する可能性があるし、実際助長していると思う。だからいつまで経っても「モラハラ」「パワハラ」まがいの行為が撲滅に至らない。

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僕自身がマウントハラスメント気質であったからこそ分かる。こういう人間はいっぺんガツンとやられて、立ち直れないくらいボコボコにされないと矯正不可能だ。でもそれが見込めるのも若いうちだけで、社会に出て一定の地位にいる人間にはもはやそのような根本的変革は望めない。変わることを望めない相手に何を期待すればいいのか。正直何も期待はできないと僕は思っている。

期待できない人間相手に僕は一切のエネルギーやカロリーを消費したくない。ので僕はそういう人間とのコミュニケーションを最適化するよう努めている。具体的に何をしているのかというと「この人間とのコミュニケーションは僕の人生の中で最も優先度の低いタスクである」と認識することだ。だから極端な話、その手の人間の相手よりも僕は尿意や便意を優先することができるし、最底辺のタスクによって立ち直れないほどのダメージを受けることがない。

そうはいってもあらゆるダメージを華麗にスルーできるかというとそうでもない。どうでもいい相手に疲弊させられることもある。だから僕はもっともっと「どうでもいい奴らとの接し方を最適化する」ことを研究していきたい。

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