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「エイリアン」シリーズを鑑賞

SFホラー映画の金字塔と言っても過言ではない「エイリアン」シリーズだが、ホラー映画という括りを抜きにしても僕は大好きな作品群だ。なぜなのか。それぞれの作品に「監督の個性」が反映されていると感じられるからだ。

1作目は「ブレードランナー」のリドリー・スコット
2作目は「タイタニック」のジェームズ・キャメロン
3作目は「セブン」のデヴィッド・フィンチャー
4作目は「アメリ」のジャン・ピエール・ジュネ

シリーズ化されている映画でかなり極端なオリジナルの設定を継承しつつ、それでも監督の個性が表現されている。僕が知る限りそんな作品は前例がない。非常に興味深い作品群だ。

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しかし一方で、僕がこだわり続けてきた「監督の個性」というのは本当に重要なのだろうか、ということを考えざるを得ないニュースが舞い込んできた。

僕はもともと「原作至上主義」寄りの考え方で、原作に第三者が改変を加えることに対して極度に敏感だ。それは映画に限ったことではない。しかし、僕が原作を知らない場合、改変には当然気付くことができない。

現に、タルコフスキーの「惑星ソラリス」は大好きな映画だけど、タルコフスキーが原作を改変し過ぎて原作者と大喧嘩したということを後から知った。そのエピソードを知ってもなお、やっぱりタルコフスキーの「惑星ソラリス」は大好きな映画であり続けている。

監督が自身の個性を表現するために原作を改変していたなら、それでも僕は「素晴らしい」と許容できるのだろうか。エイリアンシリーズに原作があるかどうかは知らない。が、件のニュースと「エイリアン」シリーズの鑑賞体験が、おかしな糸で結びつけられ頭の中が少し混乱している。

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原作が小説だろうと漫画だろうと、それは既にアウトプットとして完成形に至っている。そもそもそれをなぜ別の媒体で表現する必要があるのだろうか。そこにビジネスチャンスがあるから?

なんかもうこれ以上、このことについて深堀りしたくねえな、という気分になったのでもうやめる。

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ちなみに僕が一番好きなのは「4」だ。

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