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長良川鉄道②「おどり」という名の没頭

前回の続き。

郡上八幡を満喫し、長良川をさらに北へ。
美濃白鳥へ到着。

美濃白鳥でも、「白鳥(しろとり)おどり」という盆踊りが開催されている。

郡上おどりも白鳥おどりも江戸時代から踊り継がれる伝統的な盆踊りで、下駄をならしながら、シンプルな動き(曲ごとにフォーマットがある)を繰り返し、櫓の周りをぐるぐる進む。
地元民も観光客も、誰もが気軽に参加できることのできる懐の深いイベントだ。

白鳥おどりは郡上おどりよりテンポが速く、ノリが良いので若者にも人気らしい。

この日は、近くの道の駅の駐車場で白鳥おどりが開催されるということで、見物してみることにした。

傍観するお祭り女

ちなみに、私は地域の盆踊り的な行事が結構好きなのである。

コロナ前には、地域の小学校の盆踊りの情報をキャッチし、夜の散歩を兼ねて夜な夜な盆踊り巡りをしていたほとだ。
夜の小学校に入るのも、ちょっとウキウキするし。

だからといってノリノリお祭り女ではなく、大規模な祭やフェス、花火大会など、人が多く賑やかすぎるイベントは苦手なので極力避けている。

あくまでも地域密着型で手作り感のある、フラットなテンションで紛れ込める素朴な祭りが好きなのだ。

そして、そんな場での自分のスタンスとしては、常に傍観者であるということだ。

小学校の盆踊りに足を運ぶものの、踊りの輪に参加したことはない。
PTAの方が作ってくれる50円のかき氷をショリショリ食いながら、誰とも交流することなく群衆から距離を置き、端っこの方で、老いも若きも一緒になって踊る姿を見て1人でほっこりするのが至高の時間なのである。

白鳥おどりにも、傍観者になる気満々で出かけた。

なんだ、これは?

さて、白鳥踊りの会場に到着して驚いたのは、大人はもちろん、子どもたちの殆どが、おどり専用のマイ・下駄を履いていたことだ。
この地域のワカモノたちは、ネイティブ盆踊ラーなのだ。

20時になると、おもむろに盆踊りがスタート。
誰に指示されるでもなく、自然発生的に輪ができて人々は踊り始める。
それをしばらく眺めていた。

道の駅で踊る人々

始まって早々、気付いたことがある。
ここの盆踊りは、何かが変だ。

皆が同じ方向に向かって進み、単純な動きを黙々と繰り返している様子は、盆踊りのそれであるのだが、なにか異様な感じがするのだ。
アラレちゃん音頭や河内音頭を陽気に踊る大阪の盆踊りとは全くもって違っている。

なんだこれは。

ついにおどりの輪の中へ

そんな強烈な違和感を解明するため、私はついに、意を決して傍観者を脱し、輪の中に入って踊り始めた。下駄ではなくスニーカーだけど。

少し恥じらいながら入ってみると、シンプルな動きとはいえ、意外とステップが難しく、オロオロしていると輪が乱れる。恥ずかしがっている場合ではない。

ベテランの動きを見ながら必死で習得する。
何度も何度も同じ動きを繰り返すので、回を重ねるごとに上達し、やがて周囲の下駄の音と自分の足の動きがシンクロし、妙な心地よさに変わる。

しばらくすると曲が変わり、また1からベテランの動きを盗む。
計算され尽くしたかのような程よい難易度。
また回を重ね、少しずつ輪に馴染む。

おどる。おどる。おどる。おどる。

「没頭」の先の「無」へ

気付けば私は、完全におどりに「没頭」していたのであった。

いつしか傍観者として群衆から距離を置いて変な自意識を持て余している自分は消えていた。

ふと周りを見ると、どの人もみな、表情が「無」なのである。
おどりに没頭している自分の顔面も完全に「無」であった。

だがしかし、そこには確実に「楽しさ」や「一体感」が存在する。
最初に感じた異様さと違和感は、そこにあった。

能や文楽などのように、日本の伝統芸能では、表情は「無」のまま、その物語性や演技で心の動きを表現する。
そして、観る者の心を通してそれらは補完されてゆく。

楽しい!笑顔!という表面的なものではなく、没頭することで生まれる無の何か。

人間って不思議だ。
顔はちっとも笑ってなくても心から楽しいことはあるし、顔は笑ってるのに心は泣いてることだっていくらでもある。

その境界を越えてゆけ。

私は祭りの人混みに紛れたり、フェスやライブの盛り上がりの中にいるとき、心地よくない抵抗感を覚える。
それは、「いかにも楽しそうに振る舞わなければならない」という気がして「自分は今、ちゃんと楽しそうだろうか?」と、心から楽しめないからだ。
常に自他の境界を強く意識してしまう。

しかし、白鳥おどりは、ただ没頭するのだ。

それだけで、言葉も心のやりとりもなくたって、自他の境界を軽やかに超えていける。
そんな居心地のよさが、このおどりにはあった。

2時間近く踊り続け、最後は最もテンポの速い曲でフィナーレを迎えた。

おどりが終わると、それぞれが街灯のない真っ暗な田舎道を淡々と帰っていく。
このまちの夏は、こんな無表情の狂乱が1ヶ月近くも続く。

宿に帰ると、宿のおじさんがとても嬉しそうに感想を聞いてきた。この街の人たちは、心からおどりを愛してる。そう感じた。

来年は、マイ下駄を手に入れて輪の中に入りたい。
郡上おどりにも参加してみたい。

次の日は疲れ果て、爆睡しながら長良川鉄道に乗って帰った。
一瞬目が覚めて見えた長良川は、昨日の濁流よりも、少しだけ澄んだ清流の色に変わっていた気がした。

そして私はまた、ディーゼルの揺れに身を任せて眠りについた。

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