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古舘伊知郎を追いかけて実況アナウンサーになった

自分の仕事について書くには、いかに古舘伊知郎に影響を受けてきたかを書かねばならないだろう。僕の仕事は実況アナウンサー。このアナウンサーという職業には「局アナ」と呼ばれる放送局の社員と、どのチャンネルにも出られる「フリー」と呼ばれる個人事業主の2種類があり、僕は後者にあたる。

元々は広島エフエム放送というラジオ局に“局アナ”として勤務していたのだが、2006年に独立してフリーになった。フリーに転向した理由は、プロレスの実況をやるためである。自分が勤める局がプロレス中継をやっていなかったので、目的を果たすためには、フリーになって東京に行くしか他に方法がなかったのだ。強引な人生の車線変更、自分への煽り運転である。

では、なぜそんなにプロレスの実況をやりたかったのか?そのきっかけこそが古舘伊知郎なのだ。話は神戸に住んでいた小学校時代に遡る。

僕が小学生に入学して1年経った頃は、ちょうど初代タイガーマスクの出現によって、たいへんなプロレスブームが始まった時期だ。テレビ中継は金曜夜8時のゴールデンタイム。当時の小学生の多くがそうだったように、僕もタイガーマスクに夢中になった。金曜だけは学校から帰ると宿題も夕食も早めに済ませ、チャンネルを「6」に合わせた(関西エリアは6チャンネルの朝日放送である)。

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子供の頃に衝撃を受けたタイガーマスク

もちろん、最初の目的はタイガーマスクだったが、中継を観るうちに僕の興味は次第にプロレスから実況アナウンサーの方へ傾いていったのである。超満員の体育館からの中継で映し出される放送席で背後から押し寄せるファンにもみくちゃにされながら、ヘッドセットマイクを装着して喋りまくる“過激なアナウンサー”の姿が、たまらなくかっこよく見えたからだ。そのアナウンサーこそが、古舘伊知郎だったのである。

屈強なプロレスラーは虚弱体質の自分からはあまりに遠すぎる。でも、喋りなら真似できるんじゃないか。

そう考えてからは、テレビの前にラジカセを置いて、中継の音声をカセットテープに録音して、まるで落語のように繰り返し聞いては楽しむのが日課となった。翌日は学校に行って、教室というリングで行われるプロレスごっこで暗記した実況を披露するという、言うなれば、「実況のおままごと」が僕の実況の始まりである。

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当時録音したカセットテープ

中学生になると、教室のプロレスごっこも関節技やスープレックスが飛び出し、本格化していった。実況も少しレベルアップして、放課後に友人宅で開催されるプロレス大会のお抱えアナウンサーとして出張するようになる。中学の卒業アルバムの寄せ書きには、同級生が書いたこんな文字も残っている(岡本君、字が違ってるよ)。

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中学の卒業記念アルバムの寄せ書きから


最初の上京は18歳、大学進学のためだった。東京はちょっと電車に乗れば、プロレスも古舘伊知郎も「生」で見られる街である。古舘さんのイベントは年に一度の「トーキングブルース」のほか、3か月に一度、渋谷のジァン・ジァン劇場で開催されるトークイベント「俺にもしゃべらせろ」にも足を運んだ。2時間しゃべりっぱなし、目の前の言葉を聞き漏らすまいと集中するので、終演後はいつもヘトヘトになっていたことを思い出す。

さらには当時、古舘さんが実況していたF1グランプリにも熱中した。原付バイクを手に入れると、F1マシンと同じカラーリングにカスタムして、一人F1ごっこに興じるのである。「さあ、レッドシグナルがグリーンに変わった!第一コーナーにつっこんで行く!セナか!マンセルか?おっと、インからパトレーゼがいったー!」といった具合に大声で実況しながら走り回るという、今思えば、明らかに頭のおかしい奴である。トークイベントに行けば、古舘さんがステージで喉を潤すのに使った水の入ったペットボトルをもらって帰るなど、“中二病”の症状は良くなるどころか、ますますこじらせていた。

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大学生の頃はバイクを運転したながら実況の練習をした

この時期、池袋のサンシャインシティ噴水広場に古舘さんとアントニオ猪木のトークショーを見に行ったときに受けた感激も忘れられない。それからというもの、司会者の真似事を始め、学園祭では毎年、プロレスラーとトークショーをやるようになった。自分でプロレス団体と出演交渉をして、プレスリリースを作ってプロレスの専門誌に流してチケットを売るという「興行」を経験するわけだ。そして、今思えば、こうして大勢の人前でしゃべることを繰り返すうちに、アナウンサーを目指す気持ちが定まっていったのかもしれない。

“団塊ジュニア”と呼ばれる僕らの世代が就職活動を迎えたのは1995年、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件の直後だった。あの頃、日本全体を覆っていた空気は、自分が抱えていた将来への不安と重なって強烈に記憶している。

アナウンサー採用試験は、まず在京テレビ局から始まる。面接会場はまるで通勤ラッシュの改札のようで、リクルートスーツを着た学生は3列、4列に並んで同時に進められていた(面接官と話ができるのはほんの数秒という、今で言うアイドルの握手会のような面接もあった)。

学生にとっては、わずかな時間でいかに自分をアピールするかが勝負だ。体育会、ミスコン、海外留学、放送研究会…見た目や経歴でもキラッと光るものを持った学生は一瞬で目に留まるのだろうが、残念ながら当時の僕にそんなものはなかった。「キミ、志望動機は?」「プロレスの実況をやりたいと思いまして…」「ウチはプロレスはやってないよ」という会話で面接は即終了。「どんなアナウンサーになりたいの?」と訊かれ「古舘さんみたいになりたいです」と言っても反応はほとんどなし。当時はアナウンサー志望の男子学生の多くが、古舘伊知郎の名前を挙げていたことは知っていたものの、こっちも本音だから仕方がない。

ところが、試験に連戦連敗する中で、唯一、様子が違ったのが広島エフエム放送という会社である。TOKYO FMの系列局にあたるとか、当時は開局して13年とかを知るのは入社してからの話だ。「志望動機は?」「プロレスの実況をやりたいと思いまして…」「へえ、キミは実況できるの?」「できます」「じゃあ、やってごらん」と会話が続く。初めて面接官が興味を示している気がした。一人でラジオブースに入った僕は、広島にちなんで、その年の春に広島グリーンアリーナで行われた試合の架空実況をマイクの前で披露したところ、これがウケた。面接は順調で、役員面接や社長面接を経て内定通知を手に入れることになったのだ。就職活動で僕を救ってくれたのは、子供の頃に暗唱したプロレス実況だった。

22歳で就職のために広島へ。当然ながら、会社の仕事にプロレスの実況などあるわけないのだが、転機がやってきたのは入社8年目。既に仕事の繋がりもあった新日本プロレスに対し、体育館内だけで聞ける場内ラジオ実況の企画を提案したところ、採用されたのだ。その結果、2003年4月23日、広島サンプラザで僕は実況デビューを果たす(偶然にも、この日は初代タイガーマスクのデビュー記念日だった)。

デビューの話はここでは割愛するが、僕にとって大きかったのは、8月に両国国技館で同じことをやらないかと、新日本プロレスに声をかけてもらったことだ。今度は東京のお客さんを相手に3日間と聞けば、鼻息も荒くなる。しかも、解説者の一人には山本小鉄さんがいた。小鉄さんと言えば、古舘さんとコンビを組んでいた解説者。古舘さんと同じように隣に向かって「山本さん!」と呼びかけるだけで、もう楽しくて仕方がなかった。

とにかく、この日を境にもっともっとプロレスの実況をやりたいという欲求を抑えることはできなくなって、フリーになったというわけだ。

さて、10年勤めた会社を辞めて広島から再び東京へ。すでに32歳になり、会社という後ろ盾を捨てて大海原を漕ぎだした僕に巡ってきた最初の仕事は、CS放送のサムライTVに依頼された新日本プロレスの実況だった。局アナだった頃に場内ラジオで実況を何度か経験したことを担当者が知っていて、起用してくれたのである。

リングサイドの放送席に座って、第1試合からメインイベントまですべて喋ってお金をもらうという、目指していた仕事の始まりだ。しかし、「新日本プロレスの実況をやっています」と言っても、周囲の反応は鈍かった。ときどき「そんなので食えるんですか?」なんてことを平気で言ってくる人もいたくらい、当時のプロレス人気は低迷していた。

サムライTVの中継は、テレビ朝日が放映しない小さな大会ばかりだが、誰よりもたくさんの試合が実況できるという利点もあり、ごく稀にダイヤモンドの原石とも呼べる試合が巡ってくることもある。現在のスター選手であるオカダ・カズチカや飯伏幸太の新日本プロレスデビュー戦を実況できたのは、僕の財産だ。

それから、また10年。

新日本プロレスの人気回復とともに僕の声が流れるメディアも広がってきた。ネット中継の新日本プロレスワールド、テレビ朝日の「ワールドプロレスリング」と、つまり、現在の僕は「古舘伊知郎がかつて座っていた場所」とぴったり重なる。他のプロレス団体ではなく、新日本プロレスの放送席を目指したのは、最初の縁はも
ちろん、やはり「古舘さんがやっていたから」という理由が大きい。

以上が、教室でのプロレスごっこから始まって『ワールドプロレスリング』にたどりつくまでのかんたんな経緯である。古舘さんが走ってきた実況という道。僕がどんな考えでその道を歩いているかについては、2018年に出した著書『コブラツイストに愛をこめて』にも詳しく書いているので、興味ある方はぜひ読んでほしい(Kindle版もあります)。

ちなみに、実況アナウンサーがレスラーにコブラツイストをかけるという表紙は、古舘さんが1983年に出した処女作『過激でどーもすいません』へのオマージュで、僕は自分の本を「プロレス実況の新約聖書」と勝手に呼んでいる。

もちろん、旧約聖書は古舘さんが書いた本であることは言うまでもない。こっちも興味ある人はぜひ。


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