M-1を見て、7年前の私からの変化を感じた話。

ウエストランドが優勝した。
面白かった。
毒舌漫才、昔はあんまり好きだなって思わなかったけど、年々好きになってきている。
というか、昔は毒舌漫才は苦手で面白いと思えなかった。

高校生までは、嫌悪感を抱くこと、物事に好き嫌いを持ってはダメだと思っていた。
毒舌漫才もだけど、何かに物申すタイプの漫才が苦手だった。
なんでそんなことを言うだろう、こんなことを言うのは良くないことだ、的なことを思っていた。
まあつまり、自分は嫌悪感や批判を露わにすることを悪、良くないことと思っていた。


自分で言うのもなんだが、私は昔から交友関係に恵まれ、田舎に住み、のほほんと生きてきた。
悪意に晒されることはなかった。
のほほんと生きてきたエピソードとして、こんなのがある。

中学生の頃、部活の女の先輩に標的にされそうになったことがあったらしい。
なんでそんな他人事な書き方かと言うと、私の与り知らぬところで解決したらしいからだ。
だから具体的になんの標的になりそうだったのか、どういう成り行きで解決に至ったのかは何も知らない。
友人たちはそんな出来事があったことすら私に気が付かせるつもりはなかったらしい。
だが、友人たちが内緒話をしているのを私が1.2回ほど目撃してしまったのだ。
私は家に帰って泣いた。
内緒話をしていた友人に何かあったの?と聞いて、はぐらかされてしまって、それがショックで泣いたのだ。
友人関係で悲しくて泣いたのはこれが最初で最後である。
あまりにも悲しくて、本当に悲しかったのだ。
次の日に友人に内緒話されたことが本当に悲しかったことを伝えたところ、友人たちから悲しい思いさせてごめんという謝罪と一緒に、私が先輩から目をつけられていたけど昨日解決しといたという旨を伝えられたのだ。

はちゃめちゃに話がズレた。
まあ、この話しで何が言いたかったかというと、人生において交友関係で悩んで泣いたことはたったこの程度なくらい守られ、平和にのほほんと生きてきたということである。
私が鈍いだけかもしれないが、悪意からは遠い場所で生きてきた。
親からも叱られることはあっても、暴言や怒られることはあまりなかったかのように思う。
だから悪意とか嫌悪感とからそういうものに対して耐性がなく、悪意や嫌悪感を持つものは全て良くないこと、悪だと思っていたのだ。

こんな私が、今になって毒舌漫才を楽しんでいる。

それはなぜか。

批判や毒舌を悪だと思わなくなったからである。 

悪だと思って押さえ込んでいた感情を、それでいいと認めてあげられたからだと思う。

数学や物理の問題に対して疑問を持つことは良い事としてきたが、人の行動や思想に対して疑問を持つことはタブーだと思っていた。
人に対して疑問を持つことは全て批判に繋がるわけでは無いことに気がついた。

そういう感情を持つことは悪いことでは無い、自分の感情を認めてあげられるのは自分だけなのだから、大切にしてあげるべきだなと思うようになった。
そうすると、生きるのがとっても気楽になった。
悪だと思って蓋をするのではなく、そんなことを思う自分も認めてあげるのだ。

自分が事象に対して持つ毒な部分を否定せずに認める。
そんな毒な部分をちょうどよく撫でる毒舌漫才が面白いのだ。

それはいいすぎやろ〜笑笑
でも、そう思ってる私もちょっと居る〜笑笑
くらいの緩やかなおもしろさ、ぴったり当たると大爆笑になるのだ。

今回のM-1でウエストランドが言った、警察に捕まりつつある的なことは私も思ってたことなので見事に笑ってしまった。


悪意を個人に向ける、批判を攻撃として使うことは良くない。
がしかし、自分の中にある毒の部分は認めている。
だってこれは人を傷付けるものではないから。
人を傷付けるために認めた感情ではないから。
そういう使い方はしないなら、それも自分の一部として認めても大丈夫。

昔から母に、嫌いを作るのではなく、苦手を作りなさいと言われてきた。
嫌いを作ると自分がしんどくなるから。

確かにその通りだ。
私は、自分の中の嫌いを認めてしまう自分が嫌いだった。
あの頃の私は、ちょっと人間的に潔癖すぎたかなと思う。あの頃の私のことも嫌いでは無いが。

嫌いだと思っていた部分を苦手な部分に変えることで、全否定から考えて認める隙が生まれる。
苦手を認めると、気持ちが楽になった。
自分を否定してばかりはしんどかったらしい。

これは25歳の私が今回のM-1を見て、7年前の私から変わったことに気が付かされたって話でした。
ウエストランド、気が付かせてくれてありがとう。
ウエストランド、優勝おめでとう!





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