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Hello、『HELLO WORLD if』〜勘解由小路三鈴とは何者だったのか。

映画『HELLO WORLD』を見て十日。
小説『HELLO WORLD』を読んで二日。
スピンオフノベライズ『HELLO WORLD if ──勘解由小路三鈴は世界で最初の失恋をする──』を読了しました。

とてもよかった……………………………。

また情緒がいい感じに揺さぶられました。こんにちわ世界。さようならこの世界を知らなかった今まで。
結局。『HELLO WORLD』から続いている衝動は止まず停まらず、膨張を続ける解放されたアルタラが如く、落ち着きは取り戻せずに思考が渦巻いて、それでも確かに進んでいる。
世界について考えている、なんて言えばエモーショナルですね。先例に漏れず、一度読み終えたそのままの勢いで書いています。もしかしたら細かい部分読み違えているかもね。ご容赦。
本編に関する悲鳴はこちらで。
「Hello、『HELLO WORLD』」

ええ、分かっています。
また、──やってやりましょう。

例えば一つの出入り口。出会いと対峙と。

映画『HELLO WORLD』を見終わった直後に、Amazonで二つの小説、即ち小説版『HELLO WORLD』と『HELLO WORLD if』を買っていた。この時Blu-rayにまで手が及ばなかったのは僅かに残った理性故か、振り回された余韻故か。

ともあれ、勢いというのは物凄い物で、土曜日の深夜に本編の感想・考察noteを書きあげた後、日曜日の夕方には小説版を読破。そのまま三鈴ifへと手を伸ばした。買う時にわざわざ本編の小説だけじゃなく三鈴ifまで買っていたのは、『HELLO WORLD』そのものに魅了されていたのと、Blu-rayを買わない代わりの矛先と、ifが気になったから。だと思う。

後はきっと、副題。
何せ本編での勘解由小路三鈴は失恋をするほどの余地すら描かれていない、脇役だったから。『HELLO WORLD』ではそれなりに貴重なネームド、きちんとした名前が明示されているにも拘らず、途中でフェードアウトしてしまう。
結局彼女は、直実と瑠璃の物語に足を踏み込めていない。
ifが生まれるまでは。

私の本編視聴後の勘解由小路三鈴に対する感想は「あからさまなヒロイン」だった。その事は感想でも揶揄してしまったし、この印象を逸脱するほど、三鈴は何も出来ていない。
端的に言えば、彼女には失恋するほどの物語はなかったし、ifとなるほどのキャラクターだとも思わなかった。瑠璃と三鈴が恋のライバルになるのか、と問われて、本編だけ見ていれば同じ舞台に立っていたか怪しい。

同時に、安心感もあったのだと思う。つまるところ、私が『HELLO WORLD』に憑りつかれた要因の一つとして直実と瑠璃のカップルが心の底から愛おしいから。
どうあがこうと、勘解由小路三鈴が失恋するのならば、二人はどの世界でも結ばれるのだと安心できたから読めたのだと思う。
これが瑠璃の役割に三鈴が居たら、という物語だったら、どうなっていたかはわからない。

でもその「あからさまなヒロイン」はその言葉で片付けられるような存在ではなくなってしまったね。月曜日の深夜に詠み始めて、移動時間や諸々を含めて、火曜日の夕方には読み終えていた。

前回と同じく、読み終えてぽろぽろと考えた戯言と、その後には悲鳴。
どうか、お付き合いをば。

改めて問おう。
物語ではメインヒロインにならなかった女の子。なれなかった女の子。
そしてその人生を、かの二人が如く、二人のために、捧げた女の子。

勘解由小路三鈴とは、何者だったのか?

例えば一つの物思い。キャラクターと視点。

スピンオフ。
IF。
一先ずこの辺りの言葉を押さえておきたい。

コトバンクに依れば、スピンオフはもともと経済用語らしく、「企業が一部門を独立させて別の会社を設立する事」であり、そこから「好評だったテーマや人物を生かして作る続編」を指す。
経済用語が意味からそれこそ派生してサブカルチャー的用語に定着するの、ままあるようで。デフォルトとか。
『サマーウォーズ クライシス・オブ・OZ』などが例になる。物語の主人公が、『サマーウォーズ』にて登場したカズマになった作品だ。

IFはそのまま「もし~ならば」という意味を含めた接続詞の英単語。仮定のニュアンスを多く含ませる。他にも多くの意味を持つが、ここで想起されるのはこの部分だろう。
原作・本編・本筋。中心にあるべき物語に対して、もしこうだったら、と一つか二つ、パーツを変えてみた物語がIF Storyとなる。
こちらは『俺の妹がこんなにかわいいわけがない』の「あやせIF」とかが例になるかな。本編では辿らなかった世界線。
本編は黒猫さんルートです。公式が解釈違い。話が逸れますね。

〈スピンオフ〉は凡そ「人物・テーマ」に紐付けられ、〈IF〉は「(本編の)物語」に紐付けられる。
いずれにせよ、何かが違う物語達。

三鈴ifは上記二点が強調されていると捉えるべきだ。
「スピンオフノベライズ」と銘打たれ、「if」とタイトルに含まれる。本編とは世界を共有しながらも、距離を保つように示されているとも感じる。
兎にも角にも我々読者は、『HELLO WORLD』と『HELLO WORLD if』は大よそ『HELLO WORLD』でありながら、ちょっと違った物語である、ということは漠然と認識する。

もっと分かりやすくいえば、スピンオフはスピンオフらしく、ifはifらしく、堅書直実の物語でもなければ、一行瑠璃の物語でもない。
主役だった彼・彼女は追いやられ、代わりに勘解由小路三鈴が主役の座へと舞い降りる。
存分に、やってやれ。

違う《世界》=〈IF〉の位置。役割。

本編の直実と同様、高校の合格通知を貰った日に三鈴の元へ20年後の自分であるというミズスと名乗る女性が現れるところから、物語は始まっていく。

〈スピンオフ〉の部分は明瞭に、「勘解由小路三鈴」というキャラクターにフォーカスされている。先に述べた通り、主人公。ここにこれ以上の余地はない。
テーマの側面で言えば、「失恋」。終ぞ互いへの感情を冷ますことの無かった直実と瑠璃に、このテーマはなし得ない。

問題はこちら。〈IF〉について。
〈IF〉と語られるには、本編と違う部分が存在しなければならない。
何が違うのだろう。
主人公が勘解由小路三鈴である、というIFと捉えることは出来る。
視点が変われば物語は変わる。我々が同じ絵画を見ても、友人と全く違う感想になることが往々にしてあるように、視点が変われば物語は一気に流転する。ただ(恐らく)世界線そのものが違うのだ、と認識するのが第一歩ではあると思う。
基本、IFは本編を承知して受容されるものだろうから、読者はみなその「本編との違い」を何処かで獲得しようとする。三鈴ifも確かに、ところどころ違う部分が存在する。
例えば委員会の話と称して、3人で昼食を食べる場面とか、2037年世界での逃走劇とか。あの場面で、狐面の援軍は本編に描かれていなかったと思う。記憶違いでなければ。ナオミの結末も、直実ではなく三鈴を庇って精神状態の一致へと至っている。
物語に明らかな齟齬が生まれている。

この齟齬を、『HELLO WORLD』という作品の世界観から解消することは一応できる。ミスズが三鈴と接触した時点で分岐が発生した、と考えれば。若しくはそれ以降かもしれない。二人の邂逅とは全く別の場所で起きているかもしれない。
ともあれどこかで、2027年世界は分岐した。そう捉えれば齟齬も、それこそIFも達成される。
幾重ものトライによって理想的な世界線を創出することが2037年世界でも、2047年世界でも重視されることだ。分岐することと世界線が無数にあることは問題じゃない。
「たまたま勘解由小路三鈴が活躍した世界線」を切り取ったのが三鈴ifに過ぎない。

物語は「描かれた事」によって展開されるが、「描かれなかった事」は断定が出来ない。描かれなかった事は、無かった事ではなくあったかどうか分からない事、と非常に曖昧な空間に放り出される。特にifのような形で与えられた場合は。
マイナーカプにハマった人間の主張みたいなことを言い出したが、読者はその曖昧な部分を無かった事とする。描かれなかった部分を有ったこととするのは、それこそ妄想や二次創作の類に収まる。

だが三鈴IFは公式と連結したIFだ。どこからかがIFだったにしても、どこかまでは本編との接続が公的に保たれている。
そしてIFで描かれた事は、次の3つに分類が出来る。
・本編の内容と明確に合致するもの
・本編の内容と齟齬があるもの
・本編に描かれていないもの
一つ目は直実とナオミが出会う事、秘密の特訓、古本市騒動、花火大会云々、2027年の時点で起こった大体の騒動はここに該当する。
二つ目の齟齬は2037年がその主たる部分だと思う。本編の内容と真っ向から対立する部分であって、三鈴ifがIFであることを最も決定付けている場面になる。三鈴視点の『HELLO WORLD』ではなく、『HELLO WORLD if』なのだ。

三つ目の描かれていないもの。例えば、委員会の業務を理由にした三人での昼食。「描かれなかっただけで実はあったかもしれない事」へと昇格する。正確には「描かれておらず本当にあったかどうかは分からないもの」に留まり、最も曖昧な部分になる。
昼食以外にもそもそも三鈴とミスズが接触していた点。ナオミのアクセスエラーによる幻影の削除。魔法少女かでのん。終わった後で気が付いた失恋。変わろうとして変わった結果の勘解由小路三鈴。世界で初めての失恋。
認識が難しい点として、「描かれていない部分」は「齟齬のあるもの」でもなければ「本編そのもの」でもない。あくまで、「こうだったかもしれない」という、行間と行間に新たな文章を見出しているだけに過ぎず、無かったとは言えない(書かれていないから)が、有ったとも言えない(書かれていないから)。
描かれていない部分に世界で初めての失恋を加えたことは良い説明になる。
だって2037年の騒動に介入していたかもしれないだろ。『if』とは違う形で。

結局、IFで語られることは(『HELLO WORLD』に限らず)本編に対して優越しない。違う結末を産んだからと言って、結局「もしも」は越えられない。
本編とは違うもの。IFはそこで留まってしまうのだろうか。
確かにIFは本編を超えられない。それはどのような物語展開をしようと、だ。
それでもなお、役割と影響はある。物語展開とはまた別の方向で。違った結末を見せる、という役割とは別の、本編に対するIF独自の役割。
影響やら役割やらを発揮するのは本文中で言えば、本編と合致するものと本編で描かれていないものによって表出する。

《視点》という影響がある。
『HELLO WORLD』には欠如している部分がある。欠如、と言うと語弊があるかもしれないので、弱点と言った方が良いかもしれない。
世界の狭さだ。
この世界の狭さとは、物語における世界観や構造的な話ではない。構造で言えば、余りにも広い。内側にも外側にも、無限に広がり続けることが可能で、最終的にその外側には我々が居たって可笑しくない。
ではなく、物語で叙述可能な範囲。
つまり「どの世界」の「誰」によって語られているか。もしくは、所謂神の視点(第三者視点)だったとして、誰にフォーカスを当てているか。この部分が非常に狭い。

というのも、視点は基本的に直実若しくはナオミから動かず、前者は有している情報が少なく、後者は有している情報が崩壊した。そして何より、登場人物の少なさ。物語に大きく関わるのは直実、瑠璃、ナオミ。あとは精々2037年のアルタラの所長とか、2047年のルリ(しかも作中では時代が不明瞭)で、ネームドでありながら物語に深く関わらない人物や、名前が明確にならない人物も多い。
勘解由小路三鈴もその一人だった。直実や瑠璃と同じ図書委員で、学校のアイドル的存在。
極論、『HELLO WORLD』は直実とナオミ、瑠璃。この三人で展開する。

三鈴ifが描いたのは閉鎖的な物語視点の拡張だったと思う。
〈IF〉として一つ特徴的なのが、全く別の世界線を描いたものではなく、本編に添おうという主張が見て取れるものだ。これはヒロインそのものが違うような、前提を崩す「もしも」のIFではない。話の中心は直実のままで、ヒロインは瑠璃のまま。『HELLO WORLD』の基本的構図はそのままに、三鈴は主人公になったがヒロインではないけれど。
〈IF〉なんてものは「書きたかったから書いた」ものではある。他方、作品として成立した以上、本編に対する何かしらの影響は免れない。この影響が、《視点》だった。

三鈴が主人公になる、とは即ち視点そのものが移動する。神の視点も彼女をフォーカスし、一つのフィルターとして世界を映し出す。
物語は当初の目的通り直実と瑠璃が恋人関係になることを目指す。その目的は人物によりけり、往々にして隠されているわけだが、直実と瑠璃は当事者である。そこから一歩引いて俯瞰する立場に三鈴は居るわけだ。二人がどうしたこうしたを、第三者の視点から観察する。
そして機械的な観察ではなく、彼女の感動を交えた状態で。実況、に近いのかもしれない。挙句、初対面の瑠璃に飛びつくほどのめり込んでいるわけだが。
登場人物的視点の拡張。

そしてミスズの存在がもう一つ視点の拡張を齎している。
2047年という、『HELLO WORLD』において(提示されている限りにおいては)一番外側にある世界。最も未来に位置する、と述べても良いかもしれない。まだ私自身が整理できていないのでそれぞれの世界の関係をどう表現するべきかは一旦置いとくとして。
外側で未来に位置することが、視点にどう影響をもたらすか。
世界そのものと歴史に関して、情報が一番多い状態である、ということだ。
この情報は必ずしも三鈴に伝達されているわけではない。花火大会に向けたナオミが持つ本当の動機とか、世界がそもそも記録世界であった、などはミスズによって意図的に隠蔽される。
この隠蔽された部分は、IFに対する想定される読者、即ち『HELLO WORLD』を既に知っている人間からしてみれば、承知された部分だ。無論、IFだからこそその部分にも変化が生じているのではないか、という過程もやんわりと存在するが。

謂わば、俯瞰的な視点。システム的な視点、ともいえる。三鈴は世界の住民でありながら、システム側にも取り込まれた狭間の人間へと変貌していた。保つは秩序。同様にシステム側の能力を用い、混沌を目指した直実たちとは立ち位置が異なる。
この視点は外側と未来の性質を持って世界を俯瞰するが、これは紛れもなく『HELLO WORLD』を異なった視点で見たものでしかない。IFであろうとなかろうと、アルタラや2027/37/47含めた世界の周り方は変わらないからだ。
そのように三鈴ifは描かれている。彼女がいくら躍動しようと、逆に全く関わらず挙句直実や瑠璃と出会わなくても、世界の形は変わらない。
登場したのは精々が具体性(ここは外側や未来の視座によって与えられている)であって、世界構造そのものを根幹から揺るがすものではないのだ。

そして、本編が高校生活の始まった四月から開始したのに対して、三鈴ifはそこから遡ること数か月前から始まっている。つまり語られる期間が長い。
ここは三鈴が物語に関わっていくためのイントロダクションとして設置されているものではあるが、他方勘解由小路三鈴という人物そのものを描く期間でもある。なにせ、本編と近しくなってしまえばそこへの描写に割かれるだろうから、三鈴自身のキャラクターを描くとなるとその前にする必要があった。

IFに拠る物語のズレと、視点の拡張。
『HELLO WORLD if』そのものが持つ影響と役割は、ここに集約されるのだろう。誰かから見た物語で、向こう側から見た物語。当事者には描けない物語。故に、IF。
もしも『HELLO WORLD』、直実と瑠璃の物語を、誰かがつぶさに観察していたならば。

変わらない《世界》=変わって、変えられなかった《勘解由小路三鈴》

終焉だけ見れば、『HELLO WORLD』も『HELLO WORLD if』も変わらない。
直実と瑠璃は切り離された世界へと戻り恋人として歩んでいくのだろうし、ナオミとルリは互いの執念の果てに、やっと取り戻して歩んでいく。

三鈴が介入しようがしまいが、この結末に変化は無かっただろうと思う。そこが「もしも」だからだ。
三鈴が介入しなければ『HELLO WORLD』
三鈴が介入すれば『HELLO WORLD if』
どのルートを通ろうとも、二人は結ばれて、再会する。

『HELLO WORLD』の三鈴は、学年の中心にいるような彩を以て、直実と瑠璃の結構傍にいた。それでも関わってくることはなく、気が付けば物語は終わっている。
結局、勘解由小路美鈴は何もしていない。

視点、という観点では人物の視点も世界としての視点も相当に狭かった本編だが、そこにおいて、一キャラクターとしての〈勘解由小路美鈴〉は欠落している部分がある。
〈行動〉がない。

物語にキャラクターが登場する時、主に二つの要素が組み合わさって物語内で躍動する。それは〈役割〉と〈行動〉の二点だ。
「どのような人物が」「なにをした」と表せるだろうか。文法的に述べれば主語と動詞。
将軍の号令、商売人の値引き、さえない少年の自転車全力疾走+後部座席には黒髪の美少女付き。とか。
ここに舞台や時間、その他アクセサリー的なシンボルなどのモチーフが組み合わさり、更にキャラクターの数だけ複雑に入り混じっていく。

『HELLO WORLD』の三鈴は、人物的な特徴が色濃く表現されている。
学年のアイドル。男女問わず人気があり、常にキラキラしていながらも、分け隔てることがない物腰の柔らかさ。そして、直実の憧れ。

と、ここで終わる。古本市の時に荷運びを手伝ったり、焼け落ちた本を復元して疲れ切った直実を、瑠璃が抱き締めるような形で支えた場面に遭遇して黄色い悲鳴を上げていたくらい。
その時々にも、三鈴だけではなく周囲に誰か行動を共にする存在が居た。彼女独自の行動は、一切無いと言ってしまっていいほどに、名前と印象を残しながらストーリーからフェードアウトしていく。
極端な言い方をすれば、登場しかしなかった存在。名前が与えられただけの、モブキャラと大差ない。

たまに、登場期間は短いのに強烈な印象を残していくキャラクターが存在する。登場しただけにも等しいそういう存在は、主人公と読者・視聴者の価値観を根底からひっくり返すほどの圧倒的な思想を伴っている。台詞とか、たった一つの行動で如実に表され、嵐のように駆け抜けていく。

三鈴は、生憎とそれでもない。狂気的な思想や理念はナオミやルリが持ち合わせている物であって、その役目すらない。そもそも、青春ミステリーに、いま述べているような意味での、一瞬のきらめきを持った存在は出しにくい。

さて。〈行動〉が見られないからと、物語の中で役割が失われるわけではない。登場することそのものに意味を与えられるキャラクターもいる。
本編での三鈴はその類だ。言い換えれば、「存在する事」が〈行動〉になるキャラクターたち。beの事だね。英文法って、構造を示す時にとても便利。

明るくキラキラしている、アイドルのようにかわいい学校の人気者。
こうして存在すること自体が、勘解由小路三鈴の役目。
何のために?
多分皆さんお気づきでしょう。
一行瑠璃との対比。
明るく/クールで
キラキラした/淡々とした
かわいい/きれいな
人気者/一匹狼

直実は一行瑠璃の印象を、可愛いよりは綺麗な人だと言った。この時の、可愛いに当てはまるのは「勘解由小路三鈴のような」だ。
周囲とのコミュニケーションを絶やさず、誰かに囲まれていることが多い三鈴。
周囲とのコミュニケーションに苦戦し、一人本を読んでいることが多い瑠璃。
瑠璃は決して、三鈴のような振る舞いを嫌うわけではない。寧ろ、敬意と憧れをもって接している。
あの人の様になれたら。ありふれたそんな単語の裏側には必ず。
今の自分はそうじゃないから。と続く。
一行瑠璃は勘解由小路三鈴のような存在ではない。
逆もまた、然り。

一転、主人公となった三鈴は行動の塊だ。全く行動せずに登場だけで完結する主人公はきっと存在しない。
終わった後で失恋に気が付き、自分を変えたいと切に願い、未来の自分の手を借りて理想的な自分へと踏み出す。見ず知らずの出会っても居ない二人のために奔走し、見守り続ける。一瞬、万能と錯覚するほどの未来の自分、ミスズですら諦めた世界の終焉を強引に切り裂いて、飛び出していく。
全ては親友と、好きになってしまった人のために。
親愛と、ちょっとの贖罪を添えて。
その快刀乱麻たるや、直実ですら凌駕するほどに。そこには、自身の想いを捨ててまで行動した、矛盾への魅力があった。
始まった瞬間に終わった、三鈴の恋と激情。

例えIFであろうと、勘解由小路三鈴と一行瑠璃そのものは変化しない。今まで分からなかった三鈴の思考と、欠落していた行動が与えられただけで、二人の対比される性質は変わらない。
私とまるで違う貴方だから、憧れたのです。傍に居る事を許してください、とは瑠璃から三鈴へ向けた言葉であり、〈行動〉だった。それを、瑠璃本人は三鈴に届いてしまったと知らないけれど。

三鈴と瑠璃の対比は、IFで猶更強調されていると思う。
一つは上記の通り。違うからこその憧れ。衝動。象徴的にしか描かれていなかった対比は、彼女らの言葉をもって具体性を持ち、明確になる。
もう一つは、直実を中心とする関係について。
成就する者と成就しない者。直実と結ばれるのは瑠璃であって、三鈴ではない。例えIFであっても、そこは揺らがなかった。

結末だけではなく、過程も三鈴と瑠璃は対極だった。
瑠璃と直実は交流を続けていった。誘導はあったにしろ、ある程度は思惑通り、時々想定外の行動を取って、ひたすらに直実は瑠璃に寄り添おうとした。直接触れ合い、自らの言葉で伝え合って思いを募らせていく。
これはどの世界でも変わらなかった。古本市が行われなかったとしても、直実は瑠璃に話しかけ続けたのだから。
直接的で、相互的な関係。

それを、三鈴は見ていた。直実の事を瑠璃が知る以上に三鈴は知っているけれど、瑠璃ほどは触れ合っていない。交流はなく、一方通行の観察によって、しかも成就を願いながら思いを募らせていく。直実の行動を、多く知っているのに知っているだけ。手伝うわけでも、居合わせる訳でもなく、遠くから見ていた。
幾つかある世界の中で、たまたま三鈴に行動が許されただけだったとしても、三鈴は遠くから直実を好きになっていく。
間接的で、一方的な関係。
視点の話で、三鈴/ミスズの持つ視点は俯瞰したシステム的視点だと述べた。三鈴は狐の面を被っている限り、限りなく世界の立場で、物語の外側へと追いやられていた。
だから、唯一、明白に瑠璃/ルリと直実/ナオミの物語に変化を齎せたのは、仮面が壊れてシステム側ではなくなった彼女が今度はシステム側に排除されかけた時、そのために自らを差し出したナオミの行動を誘発したその一点だったと言える。

一番外側の世界でも同様だ。ミスズはひたすらに瑠璃を救おうとあがくナオミを見続けて、徐々に心を脅かされている。それがいつからだったのかは不明瞭だけれど、いずれにせよ結末は変わらない。

三鈴と瑠璃は違う。
三鈴は瑠璃になることが出来ず、瑠璃は三鈴になることが出来ない。
故に、世界は変わらない。直実は瑠璃を好きになり、瑠璃もまた直実を好きになる。その関係性に、三鈴は割り込むことが出来ない。
自分を変えたいと願い、変わったはずの三鈴は、やっぱり失恋をする。きっと、どの世界でも変わらずに。それでも彼女は、一行瑠璃の傍で、堅書直実との行く末を見守ることにしたのだろう。少なくとも、ifの世界では。
私と違う貴方への憧れは、嫉妬も含めて、変えられない。変えられなかった。友達でいたい、という思いは。

例えば一つの感想文。悲鳴と、敬意と、憧れと。

作品性格やキャラクター論染みたものを書いていたら想像以上に長くなった。というか分析パートは本編のnoteを超えた。二つの作品に跨って述べざるを得ないのだから、長くなるのは当たり前かもしれない。

ここから先はただの悲鳴のようなもの。読みながら抱いた衝動と、読み終えて残った余韻を拾い上げて、文章にしようとしたもの。
一番、メタ的に一番外側の世界から見守ることしか出来なかった読者風情の嘆き。
論理的では、到底なく。
例えば、一つの感想文。

本編のnoteを書き終えたのが深夜一時を過ぎていた時間だったから、その後はもう眠るだけだった。書き終えた、という達成感で新たに何か手を付ける気分ではなかったし、翌日からはやっと文庫版が読めるな、と薄ぼんやり考えていた。
布団で横になって、ふと横を見ると、平積みした本のてっぺんには文庫版『HELLO WORLD』と『HELLO WORLD if』が読まれる時を待っていた。その下には読まれずに放置された本たちがたんまりと有って、そちらも早く読まなければな、と思うだけ思っていた。いつか読む。三桁超えて来るともうわからないね。一年かかる。

頭の中で決めていた優先度は、文庫、そのあとでifだった。一旦、本編をなぞりたい。自分の好きになってしまった世界へもう一度触れたい、自分のペースで進むことが許される本という形式で、沈み込んでいこうと思っていた。だから三鈴ifは、やっぱり二番手だった。
冒頭を読むだけのつもりだった。何気ない気紛れで、映画で内容は分かっているから、寝る前のわずかな時間に触れるのは本編よりもifで良いかもしれない、と新たな物語を求めて。
三鈴ifを少し読んだ。

「あからさまなヒロイン」と思っていたキャラクターは、キラキラした具合のまだない、品行方正な人物で、知らないうちに失恋をして、面接のためだけに作られていった自己に呆然としていた。

『HELLO WORLD』は自分のふと思ったことにどうも先回りしてくる。
高校入学前の三鈴は本編で描かれていないから、そうだったのかもしれない、と可能性を秘めている。ミスズがやってこようとこなかろうと、三鈴は何かをきっかけにキラキラした自分を手に入れ、高校で瑠璃や直実と出会った。それこそ失恋か、生来彼女は輝いていたのか。
いずれにせよ、その輝きは縁遠く感じ、手の届き辛い存在にされる。
その勝手に感じてしまった距離は、少なくともifにおいて、三鈴が自分を変えたいと思って獲得したものだった。

我々は何時だって裏側など分からないし知った事じゃない。物語に対してだけじゃなく、現実に対しても、輝いている人の裏側なんて踏み込めるわけがない。偉大なアスリートや天才、エリートに凡人、クラスのアイドルだって、最初からそうだったのかもしれないし、頑張ったのかもしれない。
それこそ、自分達の視点となった物語では描かれていないから、いかようにも解釈できる範囲のことで。

それがよもや、最初からそうだったと思い込んで揶揄した後にひっくり返されたわけだ。三鈴は努力して変わろうとして、結果変わることは出来たけどどうしようもなく変わらない部分があって。
三鈴が直実の努力を連日連夜眺めていたように、私達も三鈴の努力を知っている。果てしなく遠くから眺めていて、声を掛けることは出来ない。望む未来はあるけれど、叶うことはないし叶ってはいけない事を知っている。

三鈴はある種読者だった。
『HELLO WORLD』を見ている読者。
あの物語を成立させるために、頑張って頑張って暗躍して、弾き出されざるを得なかった。分かり切ったハッピーなバットエンドを迎えている。

これは分析に近いのかもしれないけれど、三鈴ifはアルタラそのものと似ている。まあ、アルタラでの出来事なんだから当たり前と言えば当たり前なんだけど。
曰く、《結末が一緒ならば、過程はどうでもいい。》
どうもアルタラの性質として、結末が記録と一致しているならばそれ以外の揺らぎを多少は加味するようである。つまり、過程は異なろうが許される。この辺りはドラえもんの『未来の国からはるばると』(要は第一話。HELLO!)が非常に分かりやすい。のび太が誰と結婚しようが、セワシは生まれる。のび太の結婚は過程で、セワシは結末。
この〈結末〉をどこに位置付けるかは未だ区別がついていないけれど、例えばナオミの介入は有れどそれを容認したのは、要所要所での結末が一致していたからだと思う。ミスズも同様に。彼女はシステム側、つまり秩序の方に深く入り込んでいたけれど、本来存在しないナオミの〈幻影〉を消して回る立場も含んでいたから、だからこそ、狐面をキーとして、システム達に受け入れられたわけだ。

「もしも」と呼ばれるIF達は何かが違うというのは承前だけれど、三鈴ifはその〈IF〉を前提に置かなかった。提示するなら、瑠璃が存在しなかった世界とか、瑠璃と三鈴の立場が入れ替わっているとか。
だけども、前提部分は有ったかもしれないし無かったかもしれないったかもしれない、と不明瞭なままで、結末は知っての通り、直実と瑠璃は元の世界に戻り、ナオミとルリは再会する。三鈴が失恋をするか、ミスズが隣にいるか、程度の違いであって、ここも結局は有ったかもしれないし無かったかもしれない。
明らかな違いはやっぱり、〈過程〉だけ。
アルタラにとっては、ある意味どうでもいい部分。
物語的には、重要な部分。
三鈴ifは、あの世界そのものから、「別に有ってもいいよ」「別に無くてもいいよ」と告げられている。だって結末は変わらないんだから。終わり良ければ全て良し。それが君の望む終わりだったかどうかは知らないね。そういう記録なんだからさ。
私達は、そこに一喜一憂する。個人と世界って本当に対立するんだな。あっちこっちの神話で神様と人間の仲が悪いわけだ。

IFとしては正しい扱い方をされているとは思う。IFありきの本編なんて、前提が間違っているから。あくまでIFはIF。本編はそれを許容するか、拒絶するかの二択しかない。

でもやっぱり私は、三鈴が瑠璃の隣で支えるという世界があればいいなと思う。そこは「有ってもいい世界」だから。どんな世界でも直実と瑠璃はお互いを救おうとするように、瑠璃の隣には三鈴が居て欲しい。
その分、孤軍奮闘した直実がより映えるのもある。直実も瑠璃に対して、「自分とは違う他人」としての羨望があった。終幕において、直実と瑠璃のアプローチが余りにも対極だったのを思い返せば、三鈴は常に「対比を生む者」でもあるんだろうな。

ナオミを外の世界から見守っていたミスズも、結局(ifにおいては)どの自分と同じように、堅書直実に恋をする。──そして失恋をする。
自分以外に向けられたがむしゃらな熱意を観察していただけのミスズですら行為を抱いてしまうのだから、向けられた張本人であるルリは如何程だったのだろう。
貴方のために頑張ります、は良い。美しい光景だと思う。そしてその相手もまた、自分であって自分ではない存在に、狂気染みた執念を以て、もう一度出会おうと抗い続けている。相思相愛なのに、方向がまるで違うのは面白い。
ルリはこの事を見て居られたから、まだ支えがあったと思う。隣には親友のミスズ。ミスズがどんな思いでルリを支えていたのか、ルリはきっとしらない。知っていてもいいけれど、それで躊躇するほどの衝動ではない。そこで躊躇する方が、ミスズにもナオミにも失礼だと分かっているから。

問題はナオミだ。
レスポンスはない。相手は病室で管に繋がれて、いくら語り掛けても何も返してくれやしない。信頼する相手すら騙して、私利私欲のために奮闘し続けている。
瑠璃への愛情だけで。まさに、狂気。

純然たる観察者だった(だった、んだね)三鈴と同様に、ミスズもそれでしかない。割り込めないラブストーリーを読む側。
間接的な存在。
自分の好きなものが二つあります。そのどちらも大切にするために、どちらの幸せも願うために、自分は一歩引いて直接的なアプローチは閉ざす。
いつだって、三鈴は直接何かが出来ない。2037年でも、狐面を被って誰でもない自分になっていたのだから。

その三鈴が、〈勘解由小路三鈴〉として動けたタイミングは少ない。屋上での昼食とか、そんなもの。でもその少ない行動が、ルリにとっては決定打となった訳で。何百回にも渡る試行を、一歩踏み出すきっかけ。
後は、2037年。ナオミが、堅書直実を取り戻す場面。

あの人の様になれたらいいな。あの人に近づいてみたいな。
三鈴の存在は、それだった。瑠璃も直実も、三鈴への感情は、どの世界でも変わらない。憧れ。一歩踏み出すための、トリガー。

苦しいのは、ifで描かれたことは全てが全て、確定事項じゃない。一言一句同じ台詞とシチュエーションの場面があったからって、それが本編との繋がりに過ぎず、重なっているから限りなく確定事項に近いだけだ。
どれだけ舞台裏に世界と思いが広がっていようとも、三鈴は物語にちょっと出てきて、途中で居なくなってしまった存在。登場する事だけが求められて、ヒロインとの対比として在る。
IFから抜け出せない彼女は、IFであっても結ばれる二人の前に失恋をするだけ。それが関の山。

「どんな世界であっても、堅書直実と一行瑠璃は恋人になる」
この因果律のために、勘解由小路三鈴は失恋をする。
二人の恋物語を、確固たるものにする失恋。
決定づけるための失恋。
貴方の恋愛が成就することを、貴方自身が望まないように、私達も望まざるを得ない。それが、世界で最初に失恋をした、勘解由小路三鈴への敬意と、憧れ。

ご閲覧いただき有難う御座いました。
本編のnoteと同様か、ちょっと長くなりました。分析部分は長くなった。作品が複数になると面白いですね。スピンオフやIFの立ち位置や役割を論じられたのは楽しかったです。
失恋するために、恋敵を傍で支え続けた。しかも、二十年も。
この始まりはどこだったのだろうな、と今は思う。自分の想いを抑えつけてまで、三鈴は瑠璃の隣に居たのでしょう。それは瑠璃が三鈴へ求めたように、友達で居たかったから。それもまた、恋心に負けないくらいの想いだったから。
憧れますね。

誰からも憧れられる少女、それが勘解由小路美鈴。

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