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Hello,『HELLO WORLD』~感想、若しくは叫び、悲鳴。

端的に映画『HELLO WORLD』を見て、得も言われぬ感情をどうにかして言語化したいと思ったのがきっかけ。
一晩休めば冷めるかと思った興奮が止まずに、無理矢理知らないのに懐かしい世界に引きずり込まれ続けている。言葉にすれば落ち着くなんて思っちゃいない。この衝動を加速させるために、私は今文章を書いている。
じゃあちょっと、──やってやりましょうか。

※このnoteは映画『HELLO WORLD』及びその他作品に関するネタバレを存分に含みます。当り前ですね。

HELLO&HELLO、きっかけとかそんなん。

一先ず筆者の自己紹介もかねて、そもそも2019年、つまり四年も前の映画である『HELLO WORLD』を見る起因を纏めようと思います。
元々そこまで映画を見る質ではなく、年に一回最低限映画ドラえもんを欠かさずに見に行く程度。一方普段からアニメを見ているかと言われればそうでもなく、昔は少し見ていたけれど、今はどちらかというとゲームや小説に触れる機会が多い。
そんな中でネトゲのフレ数人と毎週日曜夜にDiscodeで集まってアマプラのウォッチパーティで映画鑑賞をする、という文化が芽生えつつあった。
その中でとある一人が今週はこれを見ようと提案してきたのが『HELLO WORLD』だった。触れ込みは「とにかく映像技術が凄い」とのこと。普段映画やアニメを見る習慣の無い私は、タイトルに薄ぼんやりと聞き覚えはあるけれど、確か書店の本棚で平積みにされている小説で見たんだっけな、程度の情報量だった。(後で調べたら見覚えの合った小説は映画の上映と共に脚本担当の野崎まどが出したものだった。映画同様2019年・集英社文庫)
脚本の野崎まどの名前は知っていたが作品を読んだことはなく、映画の途中であまりにもシナリオの担当が気になりすぎて調べて初めて知った。映画監督や作画監督の名前はこのnoteを書いている今現在調べていないし、エンドロールは茫然自失で声優の名前を追うのに精いっぱいだった。

ともあれ、普段から映像作品に親しくはなく、製作陣の名前も知っていればいい方、と私は『HELLO WORLD』に対して全くもって真っ白な状態で挑んだのである。いや、挑んだというのもおこがましい。アマプラを開きつつ、別のウィンドウではネトゲをしていたし、机の上の整理もしていた。完全にながら見だったのである。
てかグラブルしてた。FF14はキャロットラペ作ってた。机の整理ではなくポケモンカードの整理していた。マルチタスクの片隅で、『HELLO WORLD』は展開されていたんだ。

以下・Amazonプライムより『HELLO WORLD』あらすじ
京都に暮らす内気な男子高校生・直実の前に、10年後の未来から来た自分を名乗る青年・ナオミが突然現れる。ナオミによれば、同級生の瑠璃は直実と結ばれるが、その後事故によって命を落としてしまうと言う。「頼む、力を貸してくれ。」彼女を救う為、大人になった自分自身を「先生」と呼ぶ、奇妙なバディが誕生する。しかしその中で直実は、瑠璃に迫る運命、ナオミの真の目的、そしてこの現実世界に隠された大いなる秘密を知ることになる。(C)2019 「HELLO WORLD」製作委員会

HELLO&Fall、作業の手が止まる。

引きずり込まれたのはどの辺りだったのだろう。
主人公の直実が未来の自分と邂逅した場面も、彼の視点で見る世界がデータだということも、ヒロインの瑠璃と付き合い始めた時も、「まあSFチックなタイムリープ物だったり、ラブコメだったら当然そうなるよね」と流していた。物語にはそれなりに触れてきたから、ある意味お約束は分かるし、物語はその制約から逃れられない部分と、逃れようとする瞬間に個性がある。だから、その〈お約束〉フェーズはぼーっと見ていた。
というか直実と瑠璃の甘酸っぱさが心に沁みてしんどかった。瑠璃が事故に遭ったことを記録上は否定しようという物語だったから、何かひと悶着あるのが分かっていたせいかもしれない。ハピエン厨な部分があって、心を搔き乱されるのは嫌だなぁと思っていたし、青春は、余りにも青春は、自分を焼いてくるものになっていた。同時に焦がれすぎているんだとも実感したけれど。

話を戻すと、そういった傍らの手を止めるようになった場面は瑠璃が未来の直実(以下、彼自身の名乗りを借りて「先生」と呼称)を否定した場面だったと思う。あそこは受け入れる・受け入れないどっちに転んでも〈お約束〉であると同時に、フェーズの終わりになる。物語の結末に向かって加速し始める瞬間だ。きっと、そこで手を止めるか止めないかは大きな転換点だったに違いない。

私は別に先生の行動は嫌いじゃなかった。好きな人の笑顔がもう一度見たい、というのは本心だっただろうし、行動に裏があるのも分かり切っていた。いくら自分とはいえ、自分の最愛の人が別の男と仲良くなる手助けをするのはどんな気分だったんだろうか。どちらかというと私が苦しくなったのはそっちの方だし、折角取り戻せたと思った相手に、やっぱり予想通りとはいえ否定された時の先生の心中たるや、「恋愛ってのはエゴだよな」というのを痛感する同時に、「エゴでしかない」と独りよがりなのも思い知らされた。
ここで直実が登場し、瑠璃を攫ってようやく、記録世界を取り巻いていた記録の外の世界も実は記録世界だったんだよ、って入れ子構造を複雑化し始めた辺りから画面の前に食いついていたと思う。京都駅への逃避行の場面は一緒に見ていたメンツは映像技術に嘆息していたし、確かに凄いと思った。まあ私はそれどころじゃなかったけどね。物語への、わざわざ言葉を選べば接続が上手くいってしまったのか、悪酔いするような没入感に呑まれて、ずっとぶつぶつ何かをつぶやいていた。ゲームを開いていた別ウィンドウはメモ帳の画面になり、感情のままに脳内での分析と感情を叩き込んでいた。

HELLO&Consideration、加速する思考。

恐れ多くも、筆者は物語研究を生業に出来たらいいですね。の人生を転落しており、教わっている師匠はサブカル研究も専門と領域としては近いものがあった。
そんなこんなで、鑑賞の後半は感情を揺さぶられると同時に分析も行っていた。思考がどんどん加速していき、初めの20分と終わりの20分では体感がまるで違った。思い浮かんだことが次々と繋がって、また次の考察が生まれていく。たまに物語を見ていて得られる感覚だと思う。
好きな物語であると同時に、相性の良い物語だと感じた。

折角なので先に、つまり感情でぐちゃぐちゃになって脳が破壊され、文章が支離滅裂になる前に考察を置いておこうと思う。暫く経って、後から見返したら何か一つ論文もどきの素材になるかもしれないから。
即ち、未来の自分のために、記録を。

〈記憶〉と〈記録〉

直実は先生によって自分が記録世界の住民だと知らされる。この瞬間、幾つかの否定が発生している。
一つは記憶。一つは感情。一つは思考。
それらをひっくるめて、私達は〈自己〉や〈自我〉と呼んだりしている。
記録であった、という事実は自分達はただ録音テープが再生されるかのごとく、既にあった事象をなぞっているに過ぎないのだ。通常、我々は自分の事を実は記録なのだ、と考えたりしない。考えたところで、こう考えが至る時点で少なくとも今この瞬間の自分の思考は真実と思って良い、と結論付ける。オタクが大好きなルネ・デカルト『方法序説』より「我思う、故に我在り」に帰結する論点だ。うんうん、コギト・エルゴ・スムだね。

直実はそれを、自分が記録世界の住民であることを残念ながら否定出来ない。先生の超常性によって証明されてしまうからだ。世界そのものに干渉する力と、世界に干渉されない力。作中の表現で言えば、直実が与えられた「想像によって創造する力」と「先生を誰も感知せず、触れられない」ということである。

ここで私が引っ掛かったのは、記録世界と干渉という点ではなく、記憶を記録として辿る部分だった。タイムリープでは記憶によって過去への介入が行われるが、『HELLO WORLD』は外側の世界に視点を移すと現在進行形で物語は一応進んでいる。過去に戻れているわけじゃない。あくまで未来を自分の望む形にしようとしているだけだ。記録された記憶をどう扱うか、記憶を持って記録を改ざんするか、の話になる。

一つ思い浮んだ小説が小林泰三の『失われた過去と未来の犯罪』(2016)だった。この小説は全世界の記憶が極僅かの時間しか持たなくなった世界を描いている短篇小説集だ。短編小説とは言っても世界線は同一である。この世界の住民はやがて人体の一部に記憶メモリを挿入するソケットを作り、それによって記憶を記録している。当然記憶メモリを入れ替えれば実質的に互いの身体を記憶を入れ替えられるし、メモリが破損してしまえば過去を全て失う。
興味のある方は是非一読をば。

記憶=記録となった世界は、大抵複製が問題となる。同じ記憶を持った自己が複数いる。ドッペルゲンガーなんてオカルトチックさ以上に面前に現れて叩き付けて来るのだ。要はスワンプマンだね。
このテーマを描いた最も著名な作品と言えば映画クレヨンしんちゃん『逆襲のロボとーちゃん』(2014)だと思う。『HELLO WORLD』の場合は〈個人〉であると同時に〈世界〉でもあった訳だから、二つの作品(前者が〈世界〉・後者が〈個人〉)を融合していると見て取れる。

『HELLO WORLD』が2019年であるから、クレしん(2014)、小林泰三(2016)とスワンプマンの流れを引き継いだ作品と位置づけられる。
直実と先生の関係をスワンプマンとしてよいかは微妙なラインだが、同一の記憶を持つ自己が同じ〈座標〉に存在したのだから、該当する作品だとしてよいだろう。

〈座標〉という云い方をしたのは、『HELLO WORLD』では〈記録〉の位置が外側の世界での身体に宿る〈記憶〉とリンクすることを求める描写があったからだ。先生が瑠璃を目覚めさせるために(そして恐らく一番外側に位置する世界で瑠璃が直実を目覚めさせるために)、ただ同じ結果を求めるだけではなく同じ感情の発露・記憶の獲得が必要になっていた。瑠璃が直実を(きっと心の底から)好きになること、直実が自らを投げうってまで誰かを救おうとすること。
ただの記録を現実世界のレベルまで引き上げるためには、過去改変・改竄と同時に、リンクすることも求められた。記録と記憶の一致によって、記録は肉体とも一致する。この〈座標〉がズレてしまえば、記録は記録世界を飛び出すことが出来ない。

とまあ、小難しい言葉を並べたけれども、要はどの位置にどんな記憶(記録)を持った自己が存在して居るか、という観点が一つ、『HELLO WORLD』の仕組みになっている。自身の位置を記録世界と知らされた直実は先生という存在によって、スワンプマンにさせられたといっていいかもしれない。
一つ物語のディティールとして面白いのは、直実は自身がスワンプマンだと知らされておきながら、実質そこ自体を大した問題にしていなかったところ。実感が薄かったのかもしれない。SFがSFでなくなっていき、近未来に到達しようという今日この頃、発達した科学は魔法と見分けがつかなくなりつつある一方、魔法もSFも、日常のありふれた光景の類似品として埋もれていくのだろうか。

〈現実〉と〈仮想〉、世界の位置。

ボーイ・ミーツ・ガールという物語ジャンルはいつだって私達を懐かしい気持ちにもさせるし、新鮮な気持ちにもさせる。知っていたような感覚と、真新しい感触。知っている世界を知らない世界に思わせ、知らない世界を自宅のように馴染み深くさせる。
ラノベでは使い古され、「涼宮ハルヒ」だってそうかもしれない。近年だと米澤穂信「古典部」シリーズや変形となる相沢沙呼の「マツリカ」シリーズしかり……
『HELLO WORLD』も物語ジャンルとしては近いかもしれない。

さてはて、記録世界、という仮想空間とボーイ・ミーツ・ガールを踏まえた代表作と言えばご存じ細田守監督作品『サマーウォーズ』(2009)だろう。……え? 2009年? もうそんなに?
くしくも野崎まどのデビューと同じ年に公開されているね。

数学しか取り柄の無かった少年が、何の因果か憧れの先輩の恋人役として抜擢(じゃんけんに勝った)され、やがて世界を巻き込む大騒動に巻き込まれていく……というか発端はお前が数式解いたせいだろうが。
毎年夏、金曜ロードショーの定番中の定番。花札のルールをこの映画で知った諸君も多い事だろう。見たことがないなら見てくれ。宜しくお願いします。

『サマーウォーズ』と『HELLO WORLD』はどちらも仮想空間を扱ったアニメーション映画だが、現実世界と仮想空間の距離が、そしてキャラクターたちの相対の仕方もまるで違う。
『サマーウォーズ』の場合は〈現実空間〉に対して〈仮想空間〉(Oz)は対等だった。生活に欠かせないもう一つの世界として君臨し、Ozでの名声は現実世界でも十分に価値を持ってしまう。故に、欠けた瞬間大混乱となるわけだ。
一方の『HELLO WORLD』(こっちの記録世界の名称は忘れた)はあくまで〈現実世界〉の記録、即ち〈過去〉に過ぎず、対等さはない。現実世界と対になるのではなく、内側に存在する世界であり、先生が取った行動が凡そ、異常なレベルの物であって、内側の世界は外側に影響を与えることが出来ない。しかし外側の世界は簡単に内側の世界に影響を与えることが出来る。相互性が著しく少ない、若しくは活用段階にないのだ。
対等な対の世界か、一方的な内外の世界か。

『HELLO WORLD』は何重にもなった入れ子構造になっていた。先生のいた世界も結局記録世界に過ぎず、更に外側の世界があった。内側の世界が外側の世界に影響を与えるためには、〈座標〉の話が回収されるのだと思う。リンクが無ければ、記録であり、内側である世界は外に影響を及ぼせない。

ひとつ面白いのは、障害が共通することだ。
方やウイルス、方やシステム。無感情で淡々と世界を食らいつくしていく様子は、そこが仮想空間に過ぎないことを知らしめる。だからこそ、キャラクターたちの感情が一層魅力に思える訳だが。

戦い方も差異が顕著だったと思う。『サマーウォーズ』は幾つかの個人技もさることながら、〈世界〉同士の戦いだった。世界一つを丸まる手中に収めた脅威に対して、家族という世界・集団が反旗を翻す。その炎はやがて仮想世界を通して向こう側にいる、また〈家族〉という世界を持った人々が仮託していった。アカウント、という形にわかり易く形を変えた世界(家族)と世界を構成する住民達(個人)が組み合わさっていった。

先生は一人だった。一人きりで瑠璃を助けようとして、結局否定された。個人でしか戦っていなかった。そこからの急転直下は御覧の通りだろう。直実と瑠璃を助けることに決めた先生は、自らの身を挺して直実を守った。個人から集団になった途端、また欠けて個人へと戻っていく。二つの世界は切断し、離れていく。吸収も迎合もなく、別れて行ってしまう。
なにせただの記録が消える消えないの話だ。だからこそ世界そのものは興味関心を向けない。
……はずだったのだが、一番外側の世界では〈集団〉として世界と対峙したルリたちが居たわけだ。なんだよこれ。
〈仮想世界〉〈現実世界〉の交流だけではなく、〈世界〉と対峙する〈集団〉の描き方もひっくり返してくる。小説で言えば、最後の一ページ、最後の一行で結末をがらりと変えて来る。

先に挙げた小林泰三の名前だが、代表作である『アリス殺し』(2013)も近しい。夢の世界でアリス世界の住民となる登場人物たちとそれを取り巻く事件の物語だが、世界のひっくり返し方が似ていると感じた。違いは二つの世界の関係だ。内外である『HELLO WORLD』は、そこに独自性がある。
外側と内側、という関係は入れ子構造であるがゆえに1:1ではなく1:1:1:……etcのような描き方が出来た。
外側にも内側にも世界が広がり続けている。
一つ面白かったのが、直実が初めて先生と出会うのが京都伏見稲荷だったところ。あそこは即ち境界線。世界と世界の隙間。千本鳥居の向こう側にも、千本鳥居そのものにも。我々は異世界を見ている。

想像と創造と、表現。

〈座標〉って言い方散々してるけど、つまりXYZの交点だよね?
交差するとき、物語は始まるのさ。

想像によって創造し、世界の理を書き換える力が直実が先生によって、またヤタガラスによって与えられた力だった。この力は腕に宿っている。
世界の理を書き換える力そのものを無力化する、つまり想像と創造の対極にある無慈悲な腕の持ち主と言えば鎌池一馬「とある」シリーズ(2004~)の上条当麻だろう。本(正確には図書館だが)に揶揄される女の子と出会い、システムそのものを敵として対峙し、最後は〈記憶〉そのものを失う……
こう書きだすと結構似通っている。
残念ながら京都では魔術と交差しなかったんですけどね。

とはいえ、相当に意識された存在なのではないかと思う。比喩抜きで手の届く範囲で世界とそのシステムを無理くり弄って、結局救おうとしたのは女の子一人。代償はすさまじく、記憶は切り離されていく。

このシステムは現実だと分かりにくい。一方では魔術や超能力といった概念とその表出によって、一方では狐面の不気味な存在として描き出し、私達の前に提示してくる。

これはアニメーションの特権だと思う。実写ドラマではどちらも叶えられない。いや、CG技術の発展した今では十分に可能、それこそ『ハリー・ポッター』でも十分に非現実的な魔法は描かれた。
それでも抜け出せない領域がある。非現実を描くにはやっぱり現実よりも非現実空間の方が遥かに分があるのだ。つまり、想像の世界。創造の世界。
例えばデータの波に飲まれていった直実の描写、とか。
顔が歪んで曖昧になり、途端に凛とした空間でカラスと一対一。恐怖感と共に可笑しさも同居している。

アニメーションには「画的な狂気」が許されている。アニメでしか描けない異常な世界・表現。そこに真っ先に到達したのが『パプリカ』(2006)だったと思う。日常の風景とそこに似つかわしくないシュールレアリスムな世界を、徹底的に歪んで狂気染みた表現で埋め尽くす。
『パプリカ』はロボットや魔法が出ない世界を舞台にしたとき、「何故アニメーションにしないといけないのか?」に一つの答えを出した。
いやあの映画の世界を文字にするのは無理だよ。小説原作だって? あ、はい……そうなんですけど……

私自身はアニメ方面に全く明るくないので理解が乏しいが、それでも単純に技術の進歩から『パプリカ』よりも『HELLO WORLD』の方が描き方の精巧さと密度が上昇しているのは分かる。入れ子構造になった世界も、異常性を全面に押し出すことによってより強調が成されている。
かつて『パプリカ』は「アニメでしか描けないような世界」を描いた。
『HELLO WORLD』も「アニメでしか描けないような世界」を描いた。
その時々に合わせた技術の粋を。
創造は、想像は、果てしない。それをアニメーションの世界は、形にしてくれる。

HELLO&WORLD、衝撃と余韻の世界、……。

ここまでが考察擬きでした。自分の感情とは距離を置いて、構造的に、論理的に物語の内容を分析したわけですが、この先は感想を漏らしていこうかと思います。
率直に自分はどう揺さぶられて、何処が好きになってしまったのか。
あからさまに手遅れなほど、この作品に魅了されている。

冒頭で「私は映像作品に親しくない」と言った一方、ここまでの分析で『サマーウォーズ』や『パプリカ』などアニメーション作品を提示したと思う。あとはロボとーちゃんとか、「とある」シリーズも。「とある」はライトノベルだけど、アニメも通して見ていた。
一緒に見ていたひとりがヒロイン瑠璃の事を『けいおん!』のあずにゃんに似ていると言っており、私は名前からも『俺の妹がこんなにかわいいわけがない』の黒猫こと五条瑠璃の雰囲気も感じていた。あとは『氷菓』の千反田える。黒髪ロングだったら誰でもいいのかって話だけれど、京都も高山も今の中心部たる東京から見れば西の、その一角で行われる何気なかったお話と謎解きではあるからね。

その他小林泰三作品やスワンプマン、神話領域も好きだし、恋愛ものは一対一の関係性で純愛ハピエンのみ。
私が通ってきて印象深く、好きだった物語と悉く合致してきた。

『HELLO WORLD』は好きな物語の特に好きなパーツを組み合わせて作られていた。
溺れるような感覚が止まらなくて、京都市内の歩道橋で舞い上がった砂塵の中に未だ捉われている。

黒髪ロングで機械音痴、本が好きで他人と距離を持ちながらも必要であれば主張をする。そして徐々にほだされていく、そんな一行瑠璃というヒロイン。いや結構理想的なヒロインだった。私個人はアニメのキャラだと眼鏡をかけていない方が好きだったから、病床の姿は特に刺さった。しかもツインテールだったのが当たり前だけど解けているし。黒髪ツインテ好きなんですよ。髪型で言えばおおよそ黛冬優子。
クールな子が時々他人との距離感を見失うのがいい。それと同時に他人と距離を持っている子が段々と越境を許していく、たった一人に許された特権領域がより愛おしく感じる。
ここはどうしても、「あからさまなヒロイン」では達成できないと思う。

その特別たる直実も好きなタイプの男子キャラだった。『氷菓』の折木奉太郎が好みと言えば少し伝わるかもしれない。他人との交流よりも自己を優先するが主張はしない。やや天パでどちらかと言えば内気。
他者の領域へ立ち入ろうとすることはほぼ無い。それなのに瑠璃への領域へはあっさり踏み込んでいった。「好きなタイプはもっと別」と言っておきながら。
先生は、干渉により事象が揺らいだとはいえ、過去の自分に相当するはずの直実を見誤っていた。それは「瑠璃のためならばそれなりに無茶をする」ということだ。大いなる脅威である狐面との対峙をも恐れず、もしかしたら、と赤いオーロラが表す揺らぐデータの波に飲まれて、瑠璃と再会した後も京都駅まで疾走した。いくら創造する力を与えられたからといって、物語冒頭の直実からは想像もつかない。女子生徒に占領された自分の座席を取り戻すことすらできなかったのに。

直実が瑠璃のために世界一つ分超えて取り戻しに来る、なんて先生には思いもよらなかったのだろうか。瑠璃を目覚めさせることが出来て、気が緩んだのもあるだろう。それほどの自分の積み上げてきた技術を信じていたのだろう。そして同時に見くびっていたのだろう。かつての堅書直実は弱気で、無力だったと。
先生が自身に陶酔していたとは思う。あとから振り返ったら黒歴史にもなりそうな言葉を乱発していたから。それでも、これは忘れちゃならない大原則だ。
「堅書直実は一行瑠璃を取り戻すためならば、無茶をする。」
先生、貴方だってそうでしょう。なんたって堅書直実なんですから。

直実と瑠璃のカップルは相当に狂気である。
というのは何も先生が瑠璃を目覚めさせるために記録世界へ不正アクセスをしてデータを引き抜こうとした行為そのものだけじゃない。
物語ラストに、実は一番外側の世界では瑠璃の方が直実を目覚めさせるために奮闘していた、とどんでん返しが引き起こされる。このオチに関してはまた語るとして、直実と瑠璃は立場が入れ替わろうとお互いのために奮闘する定めらしい。
純愛だね……尊い……。

と、ここで一つ冷静になってみると。
先生は直実に「十年後のお前だ」と語っていた。つまり十年間、瑠璃を目覚めさせるために奮闘していたことになる。しかも、たった一人で。だいぶ無茶をしているし、素晴らしい愛情だと思う。だいぶ重いが。これは多分瑠璃も同様で、もしかすると先生以上に時間をかけているかもしれない。
恋人の目を覚ますために人生をかける。まさしく純愛だ。
振り返ってみれば、十年なんてあっという間だった、と感じるかもしれないし、長かったと感じるかもしれない。結局それは過去に対して視点を向けているからで、今から十年先なんて想像もつかない。誰しも長くて短かった十年が大なり小なり激動だっただろうと思えば、これから先の十年もきっと色々な事がある。特に16歳から飛び立つ十年なんてとんでもない。進学、大学生活、就職、人によってはその手前にも後にも就職や進学の分岐点はある。自分の人生を適当に十年の幅で切り取ったとき、その濃さと鮮やかさは相当上位に位置するだろうに。

だが作中でも分かるように、二人が共に過ごした時間は決して長くなかった。高校入学して図書委員で出会い、事故が起こったのは花火大会の日、七月の頃。つまり三か月間だ。秋や冬の描写はされていないから、知らぬ間に季節が一周していたというわけでもなさそうだし、物語の開始が高校二年生ないしは三年生であった、というのも冒頭で交流会に直実が誘われている点からも違うと言える。
出会って三か月。その間で交流を深め、付き合い始めて、花火大会の日に至る。その後十年にも渡って人生を捧げ続けていたわけだ。
どれだけ二人にとって、お互いはかけがえの無いものだったのだろうか。

どうも直実ルートの方は瑠璃を救おうと必死になっている途中で足を負傷したようである。どれだけの代償であったのかを一つのビジュアルとして明示するためのディティールだったとしても、相当な犠牲だ。
そして瑠璃のルート。最後に朧気に、劇的に明示された外側の世界。図書委員の集まりで、スマートフォンの扱いに苦心して、住所のメモ書きを連絡先として直実に渡し、困惑させたほど機械が不得手だった瑠璃が、先端技術を用いて恋人を取り戻そうとしたわけだ。
当然、直実だって機械が殊更に得意だったかはわからない。今の私達がスマホを使っているんだか使われているんだか、その程度の感覚でしか機械、IT、科学だ、科学に触れていなかっただろう。
個人的な感覚だが、理系は文系にすんなりと足を踏み込む(そもそも、理系であっても極まれば文系の技量をある程度は備えるものだから)けれど、文系は理解の分野にそうそう足を踏み込めない。図書委員だった二人が、本の世界から実験と実践、直接的な行為の世界へと身を投じた。その事実は、ただ拍手で称賛するしかできない。
幸か不幸か、時期は完璧だった。文系だの理系だのを意識し始めるのは高校の、二年生あたりか。科目を選べと突き付けられ、ある者は今好きな分野を、ある者は将来を見据えて。ある者はこっちの方がテストで点数を取りやすいから、なんて理由でも選ぶ。
まだ、道は開けていた。もしあと一年、二年遅かったら困難な道になっていたかもしれない。
だから、失うのは高校一年生の夏、という青春の第一歩であるべきで、二人は第一歩を、いや何歩目かかもしれないけれど、抗いようのない気紛れに突き飛ばされて、盛大に踏み外した。

観終わった時、「どうだった?」と聞かれた。私は思考が暴走していたから端的に纏めるのは無理だと判断してその場での感想は述べなかった。述べられなかった。
曰く、映画の評価は賛否が入り乱れているらしい。
私は他人のレビューを今現在全く見ていないから、実際どのような論争が行われているのかは知らない。けれども、論争が起こるだろうなという気配は感じ取っている。
ラストだ。
途中で先生のいる世界ですらデータだったと分かり、外側の世界ですら記録世界に過ぎないと判明する。作品を鑑賞している観客は寄る辺を無くし、どの世界を基準に捉えれば良いのか分からなくなる。最後に、一番外側だと思われる世界がだされ、物語は反転する。
賛否両論、は評価の定まらない様子を示すが、必ずしも作品の価値を損なうものではない。寧ろ、価値を感じているからこそ観客達は自分の感性にそぐわなかった部分を論じる。問答無用で、『HELLO WORLD』の映像技術はすさまじい。そこは万人が認め得る所なのだろう。
だからこそ、目につく。
観客を振り回す物語に。

やられた、と感じた部分はそこにあった。映像は素晴らしい。青春SFとしても、(こうして長々と語らねばならないほどに)完成度が高い。
故に、論争を起こすような物語の展開は強制的に観客達を引きずり込んで、考えさせる。この終わりは良かったのか、そもそも途中から分かりにくい、最後は映像だけ見て終わった心地がする、いやいや構造を巧みに組み合わせた作品だった……一つ論点が生まれれば、観客達は物語そのものへと意識を傾けざるを得ない。映像凄かったね、今のアニメーション凄いね。それだけで終わらせない。物語そのものに注意を向け、引きずり込む。
気が付いたら、「でもちょっとわかりにくいところあったしもう一度見ようかな」
その時は映像もだけど、物語へと溺れさせられている。
まあ、賛否両論の背景の一つには先生の瑠璃に対する重い感情が全て当人に観測されていたという共感性羞恥もあるのだろうけれど。
恥ずかしいといえば、それはそう。

さてラスト。
えげつなかったよね。
直実ルートで瑠璃が目覚めた時、薄暗い病室で静寂の中、喜ぶのは直実一人。一人で戦い抜いた十年だったんだと思う。故に、その後の否定を予想だにもしなかったわけで。
瑠璃ルート。直実が目覚めた時、それなりに広い病室なのかもわからない明るい場所で、歓声。瑠璃だけじゃなく多くの人物が、直実の覚醒を喜んでいた。
対極過ぎる。瑠璃は一人で戦わなかった。多くの人の力を借りて、その段階まで辿り着いていた。目覚めた直実の世界線は分からない。高校一年生の夏に世界から欠落したのが彼だったかもしれないし、瑠璃を取り戻したその代償として入れ替わるように目を覚まさないままだったのかもしれない。
結局、記録世界は記録世界に過ぎない。一つのデータベースであり、どこで何がありました、という新聞・写真・ホームビデオを世界丸ごと記録したものだ。その活用方法は余り定まっていなかったように思える。
なにせ、あっさりとシステムを遮断して切り離してしまうくらいだ。
脳死になった人間の記録を抽出して生き返られる、など考えられていなかったのだろう。二人のやったことはその実験だったともいえるし、挑戦だったともいえるのだろう。
それを一人でやるか一人でやらなかったかの違いで。
革新的だ。医療として、有用性が高い。やり方を間違えれば倫理的に許されない行いも可能である、というのは結果論に過ぎない。包丁だって、食材を切れるし人も刺せる。
直実だって、最初から誰かの手を借りていれば、瑠璃が目覚める病室は薄暗い静寂でなかったかもしれないのに。
より無茶をしたのは、瑠璃だったのだろうな。
「何が何でも俺がお前を救う」ではなく、「何が何でも貴方を救うことが出来たならばそれでよい」と。
コミュニケーションが上手いとはいえなかった機械音痴の文学少女。
歓声の中、技術の粋を以て恋人を救う話。
最後先生は自らを投げうった。
──何が何でも貴方を救うことが出来たのならばそれでよい。
例えそれが自分の力でなくとも。
リンクしたのは、直実が瑠璃へと狂おしいほどに抱いた願いの根源。
内側と外側の直実が同化しただけではなく、直実と瑠璃がリンクしていた。

物語は一つの世界だと思う。この映画に限った話ではなく、漫画・小説・ドラマ・映画・演劇。ストーリーのあるものは、全て世界を有している。
そしてその世界は同時に、ただの記録だ。
いつ、どこで、だれが、なにを、どのように、なぜ。
それが幾重にもなって、一つの物語へとなる。
本の世界に耽っていた直実と瑠璃。
直実は物語から抜け出せず、一人記録にアクセスする。
瑠璃は物語の続きを描こうと、皆と共に歩もうとする。
本を開いて。新しい世界を得ようとするか。
本を閉じて、新しい世界を進もうとするか。
いずれにせよ、《HELLO WORLD》

ご閲覧いただき有難う御座いました。
最後の方は特に言葉にしようとしてならない、感想というよりはポエムのようになってしまったと思います。
八咫烏は日本神話において神武天皇東征の折、道案内をした存在です。
その八咫烏が伏見稲荷大社という、境界線に誘うところから物語は展開を見せるわけで。
物語が始まる、予感。誰かの物語でありながら、一つの世界そのものの開始。まさに、神話だったのかな、と。

今度京都へ行った時は、聖地巡礼祭りですかね。
ではまた。

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