素材_08

劇団も息をする

ざっと書く。ブルドッキングヘッドロックの集まりがあった。ブルドッキングヘッドロックは劇団だ。


集まるのは当然、劇団員。彼らに、来年のことについて相談をした。他愛ない相談だ。なにかできることはないかという、未だ独り言レベルの問いかけだ。


これが、課題を明確にするとても有意義な集まりとなった。


漠然とした集まりでは意味がないので、なにかしら材料になるものを用意する。名目としては企画書だ。「庭から」的には、【もくろみ】の覚書だ。私や他の劇団員が用意したそれに、受け取った劇団員がリアクションを返す。返せない者もいる。でも、読んではもらうし、居てはもらう。


それとは違い、いわゆるトップダウン、集団のリーダー格にある人たちが決めたことを、決めたこととして報告し、皆でそれに対応するという集団もある。うちも、5年以上前にはその仕組みがあった。私も、作・演出として、そのリーダー格の一部にいた。


それが劇団員の負担を減らすために選んだ方法だった。一部のメンバーが舵取りと責任を背負うことで、残りのメンバーの負担を減らし、その分、他の任(当然、俳優業を中心)に力を注いでもらおうという発想だ。


だが、その仕組みは長く続かなかった。背負ってくれていたメンバーが辞めたことで、仕組みを変えざるを得なくなった。辞めていった人たちの辞めていく気持ちはそれぞれだったと思う。おかげさまでみな、円満退団だ。ただ、残った方は、空いた席と任務を埋めるために、その都度四苦八苦してきた。その四苦八苦に疲れて辞めていった者もいる。


辞めてった人たちが悪いわけではない。まったくない。最初から、長く続けるつもりがあるのかないのかを決めないまま、とにかく今を滑らかに動かすための方法を選んできた我々に、まあ、強いて言うと、問題があった。「なんとかなる」が良い方に転がらなかったケースだ。


前回の投稿で、いつまで続くか約束できないと書いたことと矛盾するが、私は、できることなら劇団が、今後も存続し、活動を続けていくことを望んでいる。それぞれの目的を叶えるための手段として通用するうちは、という条件のもとで。ああ、だから矛盾してるわけじゃないのか。誰もが手段として必要ないと思えば、さっくり片付けて、別の方法を模索する方が前向きだ。維持、存続が目的ではない。そこは変わらない。


だから、この数年、できるだけ私がいなくても機能する仕組み作りを念頭において、主宰を続けてきた。トップダウンをやめ、劇団員の誰もが手段として使いこなせる集団にしよう、という試みだ。


残念ながら、それについての私の思索と施行がイマイチ不十分で、思い描く仕組み作りには未だ至っていない。一方、自分の中に仕組み作りのイメージを持ってくれた劇団員は、私とは違ったアプローチでそこに挑んでくれている。そこに、ゆっくりだが進歩がある。何度も言ってはうっとおしがられるだろうが、我々には今、お金がない。だが、希望はある。それは、劇団員が劇団の在り方について、アクションを起こし続けてくれている、というところにも根拠がある。


若い劇団員も、戸惑っていても仕方がないと気づいたようで、様々なところでアクションを起こすようになってくれた。つまらないうっかりや、社会人らしからぬがっかりも未だ散見されるが、それについては、私も、旗揚げからいるメンバーも同様だ。昔は上がいなかった分、今の若い劇団員より、さらにたちが悪かった。偉そうなことは言えない。ともに成長するしかない。余分に知っていることがあるから偉いわけでもなく、よく感じ、よく考え、よく動く者が敬意を集める。そういう単純な理屈で成り立つ集団であればいいと思う。


昨日の集まりにもそういうところがあった。例えば、劇団員の鳴海や、はしが、私と同じく企画書を用意してくれた。


そうだ。うち、劇団員が企画書書くんですよと言うと、小劇場を人でなしの集まりだと思っている方は、えーちゃんとしてますね!と驚き、それでも続けてるからにはそれなりにちゃんとしてるんだろ?と思っている方には、大変ですね俳優さんなのに、と労わられるのだが、どちらにも、いまいち首肯しきれないのは、その企画書を見て貰えばわかるのだけど、驚いていただくほどちゃんとした内容(世間比)ではないのであり、やりたいと思って作って来てるんだから労われる必要はないだろうという考えがあるからだ。


私の企画書も、二人の企画書も突っ込みどころは満載だった。それをもってどうにかなる、というものではなかったが、おかげで議論がよく回転した。もっと考えられれば、もっと良くなるよね、というだけのことだった。誰も動かないより、どれほど良かったか。企画書の巧拙をもって揶揄する者は、今のうちでは立場を失くす。揶揄する者ほど、なにも用意していない。伝えることがないから、反応だけで埋めようとする。あ、今のSNSと同じだ。


なにより、議論自体がとても良かった。趣旨からアプローチする者、なにをするかからアプローチする者、制作的な視点からアプローチする者が交錯し、重要な宿題を浮き彫りにした。これは、一部のメンバーが集まって企画を進行していた頃にはできなかった議論だ。いや、かつては議論しなくてもよいほど、それぞれが適所で機能していた。それも今は何回転かして、未熟な状態だ。模索している。そのさ中だからこそ、見えるところで議論が繰り返されることにはとても意味がある。


私の用意したもくろみに、欠けていた部分がよくわかった。ただそれは、次の段階で埋めればいいというものだった。そこに反省はない、気づきがあり、喜びがある。先回りして欠けていた部分を最初から用意していれば、それで行きましょうとなっていたかもしれないが、それによってお客様まで届けられた企画は、誰にとっても使えるものにはならなかっただろう。それは、今、私が望むところではない。


最古参の一人、篠原が、議論のまとめ際に「楽しいね」と言っていた。企画書を用意する者もいれば、議論を楽しむ者もいる。それを認め合いながら、劇団は今も息をしている。


もう一つ個人的に良かったことは、一つ考えが動き始めたことで、連動して関係のない別の何かも頭の中で動き始めたことだ。悩んでも動かないが、考えると動く。この違いが改めてよくわかった。


近頃、原作の無い、いわゆるオリジナル作品について、悩むところがあった。『芸術家入門の件』という成果があったからこそ、なおさらにあった。昨日の手応えを経ても、きっと悩みは尽きないだろうが、でも、考えが動き出したことで、少しずつ次のフェーズへ移行できそうだ。


『庭から』も本来の趣旨を取り戻す時は近いのではないか。いや、今のような脚本とは直接関係しない思考の断片も、いずれ大事な土になるのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?