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母と過ごした最期の8か月間

僕が高校生の頃、最近オリンピック関連で話題になった森さん(当時首相)が、IT革命!と連呼していて、千葉の片田舎の単純な高校生だった僕は、これからの時代はITなんだなと短絡的に考え、情報系の大学を志した。

1年間の浪人生活を経たのちに、無事いくつかの大学から合格通知を頂いたが、進学先として関西の大学を選択した。千葉の実家から通える大学を選ぶこともできたが、「将来の夢はサラリーマンです。」でも少し触れたとおり、僕は実家にあまり良い印象を持っておらず、少しでも実家から離れたかったのだ。

3月

実家が営んでいた工務店の従業員さんが、一人暮らし用の荷物を積んだトラックで千葉から関西のアパートまで送ってくれることになった。トラックに乗り込む前、部屋を出るときに、母に挨拶をしたが「寂しくなっちゃうから。」と、家の外までは見送りに出てこなかった。

5月

一か月しか経たないうちに、母は関西のアパートを訪ねてきた。ご多分にもれず一人息子を溺愛していたのだろう。一か月ぶりに会った母は「ちょっと痩せた?」と私の食生活を心配していた。ただ、母はずっと体調が悪そうな顔をしていて、深夜になると猛烈に苦しみ出したもので、緊急外来に連れて行くと、即入院となった。よくよく話を聞くと、半年前くらいから体調が悪く、吐血をしたりしていたらしい。

受験生だった僕に心配をかけないようにとか、父が知ったら関西の大学への進学を許可しないことを恐れ、検査も受けずに黙っていたらしい。2日ほどで歩ける程度には体調回復したため、千葉に帰ったら必ず精密検査を受けるように約束し、母は帰っていった。

6月

母から電話があった。「私、癌なんだって。あと半年くらいの命なんだって。」と言った。僕は「うん」と頷くことしかできなった。その後にどんな会話をしたのかは全く覚えていない。

8月

夏休みに入った僕は4カ月ぶりに実家に帰った。母は初めての抗がん剤治療を受けに行くことになっていて、父が病院に送ることになっていたけれど、いつものように喧嘩をし始めて「自分で運転していけ」と父は怒鳴って家を出ていった。僕は母が運転する黄色いbBの助手席に乗りんで一緒に病院に向った。「初めての抗がん剤なのに、自分で運転していくなんて」と、大きな不安とちょっとの怒りが混ざった顔をしていた。

母が抗がん剤の投与を受けている間、僕は待合室で、当時ハマっていた村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を読んでいた。3時間ほどで点滴を打ち終えた母は「思ったよりも大丈夫だった」と少し安心した顔をしていた。夏休みの1か月間くらい実家に戻っていたが、その間、ずっと、そんな感じで病院の待合室で村上春樹を読んで過ごす日々が続いた。

10月

母から電話があった。いつもより着信音が暗い気がした。「腫瘍が大きくなっているし、抗がん剤がきついから、治療はもう辞めることにする」と母は言った。僕は覚悟を決めた。

11月

再び関西まで、母が遊びにきた。随分痩せたな、と思った。どこか遠出をすることもなく、うちのアパートで過ごし、僕が大学の講義やアルバイトに行っている間、母は僕のPCでブログを書いたり、食事の準備をしてくれた。母は僕の好物だった「もやしの中華スープ」を作ってくれて、一緒に食べているとき「うち家族旅行に行ったことないでしょ。この前、お父さんに旅行に行かないか聞いたけど駄目だって。最後みたいだから嫌だ、って断られた」と話してくれた。あの人らしいな、と思った。

母が千葉に戻るとき、近くのバス停まで見送った。バスを待っている間、これで最後かもしれないな、とか考えてしまって、泣いてしまいそうになったけど我慢した。実は癌の告知を受けてから、何度か母の前で泣きそうになったことがあったのだけれども、母親の眼前で泣くのは止めよう、と心に決めていた。涙を見せたら未練を残させてしまう、と考えていたから。泣くときは、母のいない場所で泣いていた。

12月

実家に帰省した。母は一時退院をしていて家にいたけれど、一目見て「もう長くないな」と思った。年末年始は、格闘技(曙VSボブ・サップ)を観たり、百人一首をして普通に過ごした。親戚が遊びにきているときは、母は元気に振る舞っていたけど、ふとした瞬間に辛そうになるときがあった。

関西へ戻る前日、僕は母に、1月の後期試験は受けないで実家に残るよ、と告げた。「あなたの気持ちは嬉しいけれど、あなたは帰って試験を受けて。試験を頑張ってくれることが、お母さんは一番嬉しいから。」と言った。父と話し合い、関西に戻ることにした。

翌日、予定どおり母は再入院した。僕は夕方の特急列車で関西へ帰ることになっていたので、列車の時刻まで母の病室で過ごした。母とふたりだけの時間だったが、何を話して良いか分からず、黙って窓から外の夕焼けを見ていたが、いろんな事を考えてしまって、ふと涙が出た。

私が涙を流していることに、気付いた母は「お母さんの子供で良かった?」などと言うものだから、僕は益々泣いてしまった。絞り出すような声で、良かった、と2回応えた。

1月

父に母の状況を聞いたりしながら、後期試験の3週間を過ごした。母との約束どおり、最後まで試験を受けきって、東京行きの新幹線に飛び乗って、そのまま病院に向った。

父は病院近くの駅まで迎えに来てくれた。駅から病院へ向かう車の中で「もう骨と皮だけだよ、あれは人間の姿じゃない」と言っていた。僕がショックを受けないようにという父親なりの気遣いだったと思う。

病室で見た母は、本当に父が言った状態だった。一か月近くモルヒネを打った母は、もう言葉を発する事も出来なくなっていたけれども、僕が病室に入ったときに、ゆっくりと、本当に少しだけ、こちらを向いた。

2日後、明け方に母の容態が急変した。父と祖母と僕が見守る中、段々と呼吸が弱くなっていき、祖母は「なにか言ってあげな」と言ったが、そんな場合ではないのに、僕は家族とか看護師さんの目が気になってしまい、ありがとう、と一言だけ伝えた。一瞬だけ心拍数のグラフが波打ったけれども、その後は反応することはなく、母は旅立った。

その後、葬儀やらが終わって、病院に挨拶にいったとき、主治医の先生が「本当は正月に再入院したあと、すぐに亡くなってしまう状態だったんだけど、息子さんが帰ってくるまで頑張ったんだね。お母さんの気持ちを大事にしてね。」と声をかけてくれた。


関西に戻るとき、父から母の手帳を手渡された。その中には、意識が混沌とする前、私に向けて書いてくれたメッセージが残されていた。

人の人生は平等だと思う。
辛いことがあっても、頑張って生きていれば、
いつかきっと幸せだと思える日が来るから。
実りある人生であることを祈っています。

人生は平等とか、わりとありがちなワードだとは思うけれど、母は相当な苦労をしてきた人間で、その母が言っているのだから、本当にそうなんだろうと思っている。


話が逸れるが、私の好きな映画の一つに「湯を沸かすほどの熱い愛」というものがある。余命宣告された母親(宮沢りえ)が、残された時間を使い、残される家族のために、やるべきことをやりとげる、というストーリーなのだが、物語の最後に入院したときの、宮沢りえの演技は圧巻だった。表情だとか仕草だとか、私が最後に病室でみた母そのものだったから。


終わりに

今回、noteに母との出来事を書くあたって、久しぶりにあの頃を思い出したり、母のメッセージを読み返した。久々に振り返ってみると、当時心がけようと心に決めていた事が、今の生活で実践できていないことに気づかされた。改めて胸に刻みなおして、生きなきゃなと思う。反省のきっかけを与えてくれたnoteに感謝する。

いつかサポートいただけるよう、良質な記事を書き続けたいと思います!