ハイウェイ

わたしは誰かの景色の中でぷかぷかと浮いているのだろうか。


わたしの中のわたしは中指を立てる。自分を除く特定の人には決して立てないけれど、気持ち悪いと感じる事象が起きた時、立ててしまう。良くないとわかっていながら、惰性に流され1日1回は立てる。
喫茶店で隣の席に座る方々の会話、電車にぶら下がっている広告、講義で指定された教科書、バイトでおじさんからかけられる言葉、気になる企業の募集条件、友達の生活に脚を踏み込んだ時等々、日常に無作為に溶け込むありきたりなこと、それがわたしをそうさせる。

「社会」がどういうものか未だよくわからない。それは宇宙と同じくらい膨大なものであると感じてしまう。けれど、わたしは周りのあたり前とズレてしまっているかもしれないと不安になった経験が、わたしが周りにうまく馴染めていると感じた経験よりも圧倒的に多い。馴染めた記憶なんてものはないから、そういう時は安堵して何も感じていないのかもしれない。対照的に、周りや自分自身に対する違和感は濃く残ってしまう。だから、わたしは社会が何かわからないのだが、同時にそれを感じることはできているのだと思う。へんなの。

家族旅行をした。朝昼晩の外食、話が盛り上がり毎晩日をまたいで就寝、徐々に体がおかしくなる。夜キュっと目をつぶって横になっていても眠れず3時、4時まであくびが出なかったり、お腹の中が圧迫されている感覚があり食事をうまくとれなかったり、何日も排泄できなかったり。
それが続いた家族旅行最後の夜、わたしは限界を感じ宿でゆっくりしたいと主張したが「せっかくだから」と外出することになった。体調不良で1日中不機嫌な態度でいて、それをまき散らす自分自身に不満で悶々としていた。いつもなら取り繕うことは容易いけれど、家族に対してはどうもうまくいかない。かっこ悪いわたしのまま、それに抗えない。
お店に入ってからも力を込められない感覚があり、切り替えられない。申し訳なさと惨めさに自己嫌悪も溢れて、とにかくその場から消えたい気分でカツオを見つめていた。動き出しそう、刺身だが。
父が「げんきないね。具合悪い?」と声をかけてくれた。複雑な気持ちになる。少し間をおいて

「けど走りたくても、走れないの」

泣きべそをかきながら出た言葉がそれだった。みんなポカンとしていた。わたしは21歳、オトナ。

みんなが悠々としていることが、わたしには難しくて苦痛であることがある。それぞれが持っているかもしれない。
鬼ごっこをすることが決まっているイベントに、走ることが困難な人は行かないだろう。でも、この世のイベントの大半が鬼ごっこをする場合、その人はどうすればいいのか。イベントに行かなければいいのか。

大学3年9月。大学生になってから、短期バイトではないバイトを6つも経験している。続けられるが耐えられない。バイトをやめた理由は、バラバラなようでそうでもない。

わたしがそこにいる必要性を見出せない

それはお金が稼げないとか、時間が勿体無いとか、そういう個人的な訳もあるけれど、この業務にわたしは向いてないから利用者さんも迷惑だとか、仕事仲間の気分を害しているかもしれないとか、そういう後ろめたさが大きい。
「日本で働かない方がいいかもねー」
「天然というか独特な性格してるよね」
「おもしろいけど、私はそうは生きれない」
とてもソフトに、ぼやっと、そこにある輪から外されていく。別にいいけれど。

「あなたはしゃふ(社会不適合者)ですか」

わたしなら「はい」とは答えずとも、「いいえ」とは言わない、言えない。だって、ここで生きていると沢山の気持ちの悪さに遭遇するから。それが、ここにある「あたり前」に自分が適応できていないことをわたしに示唆していると感じる。
そして、それが周りにバレている気がする。実際、何人かにはバレている。その人たちは、わたしをしゃふと捉えているのだろうか。

しゃふってどうしてあるのか。
障害者、ホームレス、性的マイノリティ、わたしの言葉で説明でき、一般的な考え方と大きくズレない自信がある。
しかししゃふ、「かわいい」と同じくらいその人の価値観に依存したものになる気がしてならない。話し手の「こういう人は社会で気に入られないよね」がダダ漏れする。
「社会で」ではなく、「あなたの中で」なんじゃないのか、とびくびくする。

多くの人が自動車を運転していることを、仮免許試験を2回も落としたわたしは改めて不思議に思った。
車の構造や性能を理解して運転している人はどのくらいいるのだろう。運転しているほとんどの人は「アクセルを踏むと車のこの部分が動いてこういう風に作用して、ここに繋がってこうなるからタイヤが回転する」という構造的に自動車はどのように動くのかを説明できないのではないだろうか。
自動車教習の先生が
「ブレーキを踏みながらドライブにいれて、そう。これでもう動くから。そしたら、ゆっくりアクセルを踏んでね。そしたら徐々に安全に動くから」
とスラスラ平気な顔をして言う。恐怖。得体のしれない未知の生物をなんとか手名付けているような気分で、5Km/hの練習車26番をのろのろと進めていく。
どうしてそれがどういうものか知らないまま、使いこなせるのだろう。知っているのか、そのつもりなのか、知らなくても使えてしまうのか。

もしも車博士がいたとする。その人は運転中の小さな動作においても動く内装パーツが思い浮かび、ただ運転している人と比べ脳みそのエネルギー消費が激しく、疲れそう。
しかしその代わりに、人を撥ねるようなことはなさそう。

わたしは反社会的な人物ではない。法に触れたり、他者の権利を侵害したり、暴力を振るったりしない。可能である限り周りと戦いたくないし、迷惑をかけたくない。

ただ、蕁麻疹に耐えながらアレルギーのある食べ物を食べるようなことはしたくないだけ。

中指を立てるわたしの中のわたしは脆い。きつい顔をしているようで、悲しそうにもみえる。
「どうしてできないの」
「どうしていやなの」
「あなたの躓いているところには何もないよ」、そう暗に示される度にそれを受け入れたらどこかが腐る気がするから歯向かう。本当にそこには何もないのかもしれないし、わたしがその大したことないものを越えられないのかもしれない、越えられるのに努力が足りないのかもしれない。できないのか、しないのか、よくわからない。

わたしの友達は「英語できるよね」と言われることに対して、むむむと思うそう。英語を使う環境に置かれていたからそうしているのであって、能力があるからしているのではないらしい。
「それをcanっていうのはな~、なんかなぁ、んー」
気にくわないその顔付き、わたしはなんだか喜ばしい。確かに、わたしがあの人なら、わたしだってバイトをしないで国境を越えると思う。人前で胸を張って話せるように努めていたと思う。先生に「それは間違ってます」なんて言わなかったと思う。コンクリートに響くかたい靴の音だって、許せると思う。

誰かがしゃふと名乗る時、それは社会は居心地が悪いこと、またはその人にはしない/できない「あたり前」があることを示しているように思う。
わたしは「あたり前を変えてくれ」とか「わたしのふつうにあなたも合わせて」とか、そういうことを願ってはいない。不適合として、正解を生み出していかないでほしい。正解も不正解もない気がするから。

誰かがしゃふと名指す時、それはあなた/あの人はみんなができる「あたり前」ができない/しない◯◯であることを示しているように思う。みんなって誰だ。
「◯◯」には、その人の価値観が入り混ざる。「異常者」や「面倒なやつ」などの敵対心が表れるものかもしれないし、「困っている人」や「可哀想な人」などの憐れみが入るものかもしれない。稀に「おもしろいやつ」や「天才」などと一見ポジティブなものが当てはめられる場合もある。「しゃふになりたい」なんていう友達もいる。

わたしは世知辛いこの社会にしばしば落胆し無力感に固まるけれど、とても惹かれている。朝目が覚めると「生きてるー」ってベッドで感動する。人と話すと、モヤモヤざわざわするけど、わくわくする。できればこういう日々が続いてほしい。
生まれつき属してしまっている、ここから離れる選択肢は端からない。

「自殺をしたらしゃふ」
わたしの喉を詰まらせた、友達からのひとこと。自分がそこで存在することを認められなかった人たち。「不適合」の印を自らに押して、こぼれて行った人たち。
ここはうそっぱちも多い。その証拠に、あなたはそこにいたし、わたしはここにいる。

仮にわたしがしゃふなら、みんなは何者なのか。
社会適合者か、社会不適合者か。あるいは、社会適合者になろうと努める社会適合技能実習生か。
そもそもこの「社会」っていったい。わたしはあなたの持っている社会と、わたしの持っている社会が、全くの別物であるという自信がある。

仮に、わたしとみんなの中にある社会が同じものならすごく楽。きっと悩むこともがっかりすることも、疑うことも必要ない。そこには絶対的な何かがあるだろうから。そうなれば、わたしも腹を括って乗っかる気がする。
というか、「実は私達はみんなバラバラで全く違う世界にいます」なんて、こわすぎる。今わたしと対面しているあなたも、いつもいっしょに踊ってくれるあの人も、料理がうまい大切な人も、全く異なった空間にいるなんて、信じられない。

けど実際、ごまかさずに向き合うと、わたしはあなたにはなれない。
そして、あなたもわたしにはなれない。

嗚呼、バラバラです

でもいっしょにいる。

それぞれが社会に適合しているが故に、ズレを感じている、気がする。


わたしに「しゃふ」と言ってきた人がながらスマホをしていた。
「ながらスマホ、やめな」
「だってライブでしか見れないんだもん」
その人は画面に吸い込まれながら、わたしの少し後ろを歩く。Googleマップに従い小道に入ると
「ゴロゴロゴロゴロゴロ」
その人のキャリーケースが工事現場のように大きな音を立てる。23:08。「しょうがないよな」と思う。Googleマップは、利用者がこの時間にキャリーケースを持ち歩いていることなど想定しようがない。たまたまこの道がガタガタだった、ただそれだけ。
急に音がしなくなった。
振り返るとその人は重たいキャリーケースを持ち上げて歩いている。片手に光るスマホを握り、それを見つめながら。

またぼやけていく。

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