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第一回「コダワリのコトワリ」ゲスト:石井則仁

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石井則仁 ishii norihito
振付家 / 舞踏家 / DEVIATE.CO芸術監督

17歳からストリートダンスを踊り始め、様々なダンスコンテストにて入賞。数々のアーティストのバックダンサーやCM・テーマパークダンサーなどで活躍後、2006年活動場所を舞台空間へ移行。
過去に様々なDance Companyの国内外の公演に参加する傍ら、蜷川幸雄や宮本亜門の演劇作品にも出演。
2010年舞踏カンパニー山海塾に在籍し、自身の活動も含め25カ国70都市以上で公演を行う。
http://norihitoishii.com/index.html

----対談----

石井則仁→石)、YASUCHIKA→Y)

Y)早速はじめるわ。
いつも通りのフランクな感じで行こうと思う。

石)りょです〜

Y)ノリの芸術家としてのコダワリは何?
ざっくり過ぎるけどw。とりあえず、大枠からってことで。
聞き方悪いかw もっと絞った方がいい?

石)うん、絞ったほうが楽。笑

Y)だよね〜。
ではでは、身体表現ってことで行こう!
で、その前に舞踏家?ダンサー?としてってどっちがいい?
これ、随分変わると思うけど、どう?

石)舞踏家で!!

Y)OK!
ではでは、舞踏家としての身体表現、もしくは身体の使い方?(でいいかな?)のコダワリは何かな?

石)元々、HIPHOPからコンテンポラリーダンスを経由して舞踏なので、身体をちゃんと使うってのはまず大前提でありますかね。
舞踏はイメージ先行が多いんですが、技術もちゃんと使う、まず第一条件はこれですかね。

Y)なるど、技術ね…
ってその前に、ダンサーと舞踏家って、何か決定的な違いはある?
ノリの経歴だから見える、違いってのがあると思うんだけど、どうかな?
俺はHIPHOPもコンテもバレエも通して来てないから、なんだかんだよく分かってないと思うから。

石)自分の中で使い分けてるのは、コンテンポラリーダンスは身体のデザインと身体技術、舞踏は伝統芸能と同じでイメージから作り上げた型と集中深度ですかね。

Y)コンテと舞踏の話だけでも、幾らでも話せそうだで、ここはもう舞踏に絞っていくわw
ノリは山海塾から舞踏を始めたって認識で俺はいて、それで他の舞踏家とも交流して来たと思うけど、舞踏に対する認識ってそれぞれ随分違うと思うけど、どう?

石)経緯から離すと最初に舞踏のWSに行ったのは大駱駝艦でした。
壺中天でのWSと合宿に参加して、そのあと縁あって山海塾に所属。
舞踏を学び始めたからは14年ぐらいかなぁ〜
山海塾は研修期間も入れると12年。
流派といっていいのかわからないけど、人それぞれの舞踏哲学は全然違くて面白いと思ってます。
どれも学び知るのは結構好き。

Y)そっか、そっか!
駱駝からの山海塾だったね。なんとなく思い出したわw
因みに土方派?、大野派?には触れたことある?
って舞踏って大体その四つなんかな?

石)どうなんですかね〜それすら定義できないのが舞踏という面白さもありますしね〜
世間では土方派と大野派と駱駝系統ですよね。

Y)なるほどね、定義されてない、もしくは出来ないことの面白さってのがあるから舞踏は特に海外に於いて、ジャポニズム的な感じで興味深く扱われるのかもな。
個人的にはその定義のなさの甘さは諸刃の剣だとも感じつつ…それはとりあえず置いておいてw
それで、今まで交流して来た舞踏家達の舞踏哲学やら何かで一番共感、もしくは面白いって思ったのって、どんなのがあるのかな?

石)うん、それは俺もそう思う。
日本の風土と歴史と言語から成り立ってると思うので、その辺知らないと舞踏って海外の人には難しいよなって思う。
最近はそんな多くの舞踏家と交流を持ててないから難しいけど、ここ数年だと北海道の最北の舞踏家 田仲ハルさんから一緒に踊ることで色々学んでますね。
ハルさんは北方舞踏派の最後の方で、昔の暗黒舞踏の一面もあり僕が知らない型とか見させてもらいました。
ハルさんはグラフィックデザイナーってこともあり、オシャレが必要ってのが一番共感してます。

Y)オシャレが大事!w 大事やね~。ってソコ!w
確かにノリはオシャレさんだでな~。
俺はオシャレを大分サボり始めとるわw
田仲ハルさんは一回見たことあるわ。
彼も型のある舞踏をしているとは知らなかった。

全ての文化に言えることだけど、言葉は文化の結晶だし、その母語を理解するのは、なかなか難しいものだとおもうわ。それは逆に日本人がバレエを理解するのも難しいっていうのも言えるかもな。
西洋と東洋ってわけ方も今はもうナンセンスかもしれんけど、文化的には、東洋の方が我ら日本人には共感しやすく、その傾向は今でも残っているとは思う。
それは風土や人種的なことにも関わってくるから、かなり話が広大になってまうねw

話を少し戻すと、ノリ個人として、ソロとかの場合は舞踏家として舞台には立っているの?
もしくは、そういうカテゴリーには縛られることなく、石井則仁として立つのかな?

石)WSやハルさんのカンパニーメンバーの振付は基本型でやってると思う。
基本、舞踏家として舞台に立ちますね。
あれもこれもと肩書きにできるって書くのも良くないし、作品作る時はコンテの振付ができないんですよね〜。。。
舞踏のが身体技能と集中力が繊細なのと意味を持ってるので、いつも舞踏の思考で作品を作ってます。

Y)そうだわな。
もう14年も舞踏をやっていたら、舞踏家として立つ方が身に合うよね。

それで、舞踏の身体技能、集中力の繊細さっていうのに話をもって行きたいんだけど、
その前に「意味」っていうのは、どういうことなんだろう? これも多分切り離せない大事なことだと思うから聞くんだけど、
まず、一挙手一投足に意味が付随しているってことだとは思うんだけど、
それは行為として明確なベクトルがあるということなのか?
もしくは、イメージの具現化としての身体の変容を表した姿としての意味性なのか?
こんな感じで言葉にするなら、どんな感じかな?

石)僕が学んできた舞踏はやはり基盤は山海塾で、それは伝統芸能とかと同じで、自分が学んできた舞踏には意味を持つ動き「型」がある。
イメージを具現化し身体を変容させ、無駄なものを省き、型にしてます。
それは舞台上では明確にベクトルも決まり、全体がデザインされてる。

Y)なるほど「型」ってやつが、なによりノリにとっての舞踏の重要な要ってことになるんだね。
ちなみにノリのオリジナルの「型」はあるのかな?

石)自分の舞踏に対して一番型が大事かといえばそうではないけど、その歴史というものの時点で重要視はしてます。

俺のオリジナルの方も少なからずあります。

Y)25才前後から俺がベースにしている身体観があって、その稽古の中で型や動法を通して、日本の文化的身体とはどういうことかを経験してきたんだけど、
近年、武術を始めて、マジで「型」の意味やその重要性がやっと少しずつ理解出来てきて、本当よく型を作ったもんだと感嘆させられとるよ。
古(いにしえ)の身体に触れる機会が型や式を通して得られるのも、それを紐解いてくれた人のお陰あってのことで、そういう処に出会えた事はマジで有難いわ。
で、ノリの舞踏に於いて、型が一番重要でないとなると、何が一番重要になってくるの?

石)リアリズムって言っていいのかなぁ〜
表現することに関しては舞踏は演劇のもっと先にあると思っていて、それを演じるというよりかは「成る/成ってしまった」に近いと思ってるんです。
で、その表現する物や事はいろんな要素をそぎ落としてただ一点の深みというか、ドリップされた最後の一滴を持続し続ける、そうしてできたものが型になると思ってます。
よりリアルにイメージをして表出する、そしてそれをちゃんと体現できる身体能力を持つってことがまず一番最初に重要視してますかね。

Y)なるほど〜。
一応w俳優でもある俺からすると、演劇も表現様式は違えど「成る」から「成った」の先に生きた芝居が立ち上がってくると俺は考えていて、
それをリアリティーと言うのならば、俺の演劇に於けるリアリズムはそこだわ。
そうそう、いい脚本だとね、「そこはこうでしかない」っていう感じのところがあったりするんだけど、
それは、ある種の型に近い感じのような気がするわ。
でね、そこで重要なのが、やはり体現出来る、表現能力と言えばいいのかな。
俺はそれを身体の有る無いで言語化したりするんだけど、
そのノリのいう身体能力っていうのは、後天的に修練を積んで獲得出来る類のもの?

石)獲得できると信じてますね。
でもその修練は職人と一緒だと持ってます。

Y)「職人」ワード出てきてまったね。
伝統、工藝、職人と芸術…とか話がまた広がってまうで、「職人」はスルーさせてもらってw
その身体能力を培う、獲得する為に、ノリがしていることはどんなことなのか?
ここがこの企画で俺アプローチしたい「コダワリ」ってことになってくるんだけど、
そのコダワリは幾つもあると思うんだけど、
今注目しているのってあるかな?
そう、俺もノリの言う「身体能力」というのは獲得できるものであると思うし、そういう人達が繋げて来たから、芸術も存続していると考えとるわ

石)基本は
・生活を大事にすることと認識すること
・自分の身体の無自覚を少なくし、操作可能にすること
ですかね。

今注目してるのはないですかねぇ〜舞踏家としてこだわってるところは。

Y)ではでは、これまで培って来た舞踏家としてのコダワリの中で、言語化出来ることって何かある?

石)ん〜やっぱり、自分の身体の無自覚を少なくし、操作可能にすること
、ですかね。
例えば、目なんですけど、近くを見たり遠くを見たりするだけで瞳孔が開いたり収縮したりするじゃないですか。
それを舞台でも使い分けます。

あとは特に弟子たちにも言ってるのが、初動の動き方や歩いても空気を動かさない、とかですかね。

動きに関してはいっぱいあるんですけど、わかりやすいのは上記のことかな。

Y)すごくいい! そういうやつを教えてほしいかな。
例えば、無自覚を少なくするって言うのは、体の何に対して自覚的になることなのか? 
それを操作可能にするってことは、筋肉なのか?もっと抽象的な動きに対してなのか?もしくは体の輪郭なのか? もっと別の何かなのか?
目線は意識で変化可能だけど、瞳孔って、光の量によって勝手に変わるものだと俺は認識しているんだけど、それも操作可能なのか?
それと空気を動かさないはとても興味深い。
それは、ある種の感覚的なことなのか?
実際に動かさないように注意することなのか?
もしくは、もっと質としての話なのか?
でここで挙げてもらった「動き」は「身体能力」とは別物なのか?
っていっぱいでてきてまったけど、どうしようw

とりあえず、空気の話をもう少し深ぼってもいいかな? 
実際空気を動かさないってどういうかんじなのかな?

石)「例えば、無自覚を少なくするって言うのは、体の何に対して自覚的になることなのか?」

客観性ですかね。

「それを操作可能にするってことは、筋肉なのか?もっと抽象的な動きに対してなのか?もしくは体の輪郭なのか? もっと別の何かなのか?」

人体というのは結局は脳の神経系統が動かしているものなので、やはり筋肉や骨が動かないと操作可能とは言えないと思います。
舞踏はイメージから動き出すことが多いんですが、身体能力が低いと客観的に見て、頭の中でイメージしているものとのギャップが凄い。
イメージから稽古をするのも大事だけど、身体能力・技能をアップしていくことも同時に大事だと思ってます。

「目線は意識で変化可能だけど、瞳孔って、光の量によって勝手に変わるものだと俺は認識しているんだけど、それも操作可能なのか?」

瞳孔って光の量なんですか?僕は遠くと近くという概念だけで、操作が可能だと思ってます。
そこに光という作用は関係ないですかね。

「それと空気を動かさないはとても興味深い。
それは、ある種の感覚的なことなのか?
実際に動かさないように注意することなのか?
もしくは、もっと質としての話なのか?」

ある種の質感ですね。
WS生や弟子に教えるときは、死んだ人間の心電図のように(例のピーってなり続けるあれです)一定の質感質量で動き続けることを教えます。
ダンスって起承転結をつくりがちなんですけど、僕の哲学では起承転結を作る方のが簡単なんです。
起承転結を作らず平坦で同質なものを長く見せる方のが難しいので、それをまず教えます。それは繊細でとても丁寧に体を認識しながら動かなければいけない。
生きてるだけだと身体に対してだいぶ雑なのが人間なので。

「でここで挙げてもらった「動き」は「身体能力」とは別物なのか?」

動きは、動くことや踊ること、型や振付ですかね。
身体能力は、自覚をしながら体をちゃんとコントロールできること
ですかね。

あ、全部に書いちゃった笑

Y)いいね〜!(≧∀≦)
いっぱい出て来たね。

どれを拾ったらいいか、迷ってしまうけど、

俺は大枠で言ったら、オートマチックというか、身体が自然に持っている能力を存分に発揮させる為に、どうしたらいいのか?っていうことに着目し続けてきているから、操作やコントロールからは遠いんだよね。
それは無論、意識とか注目とか集注とか観察とかを徹底的にやらないと生じて来ないんだけど…これは置いといて、

イメージのことについても、これは俳優的なアプローチで「無対象」ってのがあって、パントマイムみたいなやつなんだけど、何がパントマイムと違うかと言うと、(これは、あくまで俺の認識というか、便宜的に説明する為に言うんだけど)パントマイムは見る者に対してやっていることが見えればよくて、やっている本人は実感なくてもいい。
無対象の場合は、やっている本人が圧倒的に信じられている、もしくは臨場感を感じているか?否か?が問われるところなんだけど、これは客観性とは何か?みたいな話にも通じることになるから、保留w

やっぱり空気で行こうかね。
ダンスの起承転結の表現と、ノリの起承転結の無さから観えてくる舞台現象、空気の動かなさ。
ここを深堀るのはどうだろう?

俺も空気を動かさない、空気にぶつからない稽古や本番での経験はあって、今でも空気にぶつかっているとか、無駄に空気を掻き乱しているとかいうことに注目したりする時があるでね。

石)空気を動かさない動きができてから起承転結を考えると、濃密な時間軸が生まれるんですよね。
「何もないところ」から「生まれてくる何か」が明確に立ち上がってくる。
作品は結局起承転結で作り上げるものだからこそ、静寂の底辺を掘り下げると起承転結の振り幅が強大になる。

Y)因みに、「何もないところ」から「生まれてくる何か」ってすごく興味深い。
それは、ノリ本人が手応えとして感じられるのか?
もしくは、観る者がそう感じるのか?
はたまた、本人の手応えがあった時に、観る者も味わえるものなのか?
その辺はどう?

石)見るものがそう感じれると思ってます。

本人の手応えがあってからでは舞台に立つ意味がないので、策略的に絶対やらなきゃいけないものだと信じてますね。

Y)「絶対にやらなきゃいけないもの」だとするならば、それは「再現性」があるって捉えてもいいのかな?

最後の「信じてます」は何にかかってる?

石)再現性があるってことですね。
僕の考え方はコンテンポラリーという概念もあれば伝統芸能のように継承からくる再現性も持ち合わせいてます。
もちろん微細にその時々の良し悪しが表現する自分自身にあるのはしょうがないと思いますが、お客にそれを感じさせてはいけないのがプロだし、表現するということに責任を追わなきゃいけないと思ってます。
なので再現性は必須かと。

信じてるって言葉がよくなかったですね。
思ってるってことですかね。

Y)なるほど。
再現性、プロフェショナル、責任…から「職人」ってワードが出て来るのがよく分かるわ。
幾つものレパートリーがあって各国をツアーしている山海塾で培った舞踏と考え方なんだろうな〜って思う。

あと「信じています」っていう言葉の選択の意味もなんとなく分かったわ。

で、今回の「コダワリ」として、「空気を動かさない」と「何もないところから生まれてくる何か」に特化してperformanceしてもらっても良いだろうか?
(ってperformanceって言葉が合わないといつも感じるけど、なんかある?)

石)了解しました。
パフォーマンスというよりかは実演って感じですかね。

Y)実演いいね!

で、「何もないところから生まれてくる何か」って、多分時間を要すると思うんだけど、前半の実演は「空気を動かさない」に特化してもらって、後半はそこから「何もないところから生まれてくる何か」を重ねてもらえたらって思うけど、どうだろう?

石)了解です。
映像的にも白いかはわからないけど。。。

Y)笑! 映像的なことは考えなくていいよ。
その辺プロフェショナルの血が騒ぐだろうけど、
コレはあくまでも生を記録しているだけで、映像用に撮ろうとしていないところがミソだでさ。

石)了解どす!!

Y)理解してくれてありがとう!


ーーーーーー後感ーーーーーー

対談じゃなくて、インタビューになってまっとるがや(//∇//)
やっぱり間に誰か一人入れた方がいいのかしら?

ってことで、次もしやる時は「対談」しま〜す! by YASUCHIKA


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