見出し画像

【魔女の棲む村】

The Devonsville Terror (1983)
監督:ウーリ・ロンメル
脚本:ウーリ・ロンメル
ジョージ・T・リンゼイ
スザンナ・ラヴ

1683年代デボンシビルで3人の女性が魔女として処刑された。その処刑も、生きたまま豚に喰わせる、火あぶりの刑に処せられるなど陰惨を極めるものであった。デボンシビルの審問から300年経った1983年、未だ昔ながらの慣習の残る村に移り住んだ三人の女性。彼女たちもまた余所者をうけ入れない村人から疎外を受け次々と処刑されていく。ついに女教師(スザンナ・ラヴ)が最後の一人となった時、閄が彼女を覚醒させた。

これは嘗て全欧州を席巻した女性蔑視や虐待、また男女同権と叫ばれながら田舎においては未だ蔑視が残っていた時代の作品であって、魔女狩りはそのことに対する暗喩として捉えているように思える。this is horrorだったか失念したが ウーリー・ロメル監督が インタビュー動画にて、そういった内容の発言をされており意外な感想を持った記憶があるのだが・・・。
そもそも「魔女狩り」であるが、これは一種の言論弾圧 為政者や権力者による自身の保身による異論の排除や権力の堅持でもあるが、当然見殺しにする民衆による 群衆心理のようなものもあって 見下し茶を濁す連中も加担者になる。万一、自身が「魔女」の仲間だというレッテル張られたらお仕舞いだ。
「魔女」とされた者は迫害され処刑されるか、自害するか、自身の潔白を証明するか、捻りつぶすか、何処かに逃げるしかない。捻りつぶすと言ってもランボーのように権力者とそれに加担する群衆全員はちと疲れる

映画では300年前の「何か」が閄となり審問者に鉄槌を下すという隠喩的表現で締められているが、実際にはそうはならない。
「魔女狩り」遠い異国の昔の話のようでもあるが、誰しもが持つ独特の心理状態の集合体であっていつの世も、どこでも起こりうる「弱い者イジメ」のようなものでしかない 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?