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躁鬱(双極性障害)の人向け 自分の現在地がわからないとき

自分が今どの段階にいるのか?について、納得いくような説明を医師から受ける機会はありませんでした。各個人が感じている、内側の感覚を、医師が正確に把握することは難しいため、「以前より良い」といった指摘にとどまるのではないかと思います。

振り返りつつ考えてみた時、自分の体感としっくりくる現在地把握を言語化してみようと思うのですが、これは私の感覚であり、こういうものです、と断言する気持ちはありません。

まず、双極性障害の回復過程において、とても似ていると感じたのが、子どもの成長過程を表す、3つの段階です。

①してもらう喜び
②できる喜び
③してあげる喜び

私はⅠ型で、症状がはっきりしていて、鬱の時は4ヶ月くらい寝たきりの期間がありました。

この時は、全く何もできないので、周りにしてもらっているので、①の状態。

少し回復して、身の回りのことが自分でできるようになるのが、②の状態。

さらに、他の人の手伝いなどができるようになってくると、③の状態。

なのですが、子どもの成長過程と大きく違うのが、喜んでいないところ。子どもはできることが増えるので喜びがあるのですが、病気によりできることが奪われたため、事実として何かできることが増えても、「自分はこんなことしかできない」と感じてしまいます。

そのため、②の状態まで回復していても、周りや、世間一般との比較により、なかなか前向きになれない時期も。

②の状態のとき、以前の寝たきりに比べたら、着替えて外出できるなど、だいぶ良くなったな、と感じると、③の方に向かっていけるように思います。

(②では、以前の自分に100%戻ることはないから、今できることやっていく、といった前向きな諦めもあったと思います。)

③では、身近な人を手伝うなど。同時に良い関係を育てられる状態です。

②の状態くらいで、社会的な活動(仕事)なども頭をちらつくのですが、自分の持っているものを分けるには、喜びが余っている状態でないと、できたとしても長続きはしないのかな、と思います。

余裕がないのに、人に分けるのは、どうしても自己犠牲が伴います。①②③を自分の手のひらに乗せた(獲得した)上で、場面に応じて使い分けられると良いなと考えています。

“余り”とか“分ける”のニュアンスについては、こちらの記事を読んでみてください↓


今の私は、ゴミを捨てに行くことも、子どもを迎えに行くことも、食器を洗えることも嬉しいです。でも、あまり大げさに感動していると、躁に傾くので、静かに喜んでいます。

目に見える範囲の生活に関わっていると、“余り”が出てきます。それは、体力、会話、意欲、興味、時間など様々。その“余り”をどこに振るか?がこの先の話になってくると思います。

余らせるために頑張るというよりは、頑張らない生活をしていると余ってくる感覚です。

①から②は自然に移行していきますが、②から③は意識してそうする感じがします。

それぞれの時期になにをしていたか?ですが
①体を休める・癒す
②生産性のないことをする(暇つぶし)
③家族の手伝い・ボランティアなど

①と②は焦りの気持ちで、意味のあることを探し、やろうとするのですが、「このままの自分ではダメ」という否定から入る行動になり、続けるのもやめるのもしんどくなります。

②で暇つぶし、と書いたのは、結果を気にせず楽しめることは、心を軽くし、結果的に余力が出るからです。

余力が出てくると、何かしなければ!という焦りとは違う、何かしたい、という自然な気持ちがわいてくる感じがします。

今回の記事は、言葉にするとこんな感じかな、という自分の体験談です。これをした方が良いと勧めるものではありません。

お読みいだだき、ありがとうございました。




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