[読書感想文]無知の壁
無知の壁 「自分」について脳と仏教から考える 養老孟司 アルボムッレ・スマナサーラ <聞き手>釈徹宗 2014年 株式会社サンガ
現代社会に適応するために必要な近代自我は、前近代の自我が抱える問題を克服して確立した。しかし、それでも厄介な問題を生み出す。近代自我の弊害に自覚的であるかどうかが善く生きるための分岐点である。
「個はそもそも実態のない主観的なものである」ということを解剖学者の視点から語る養老孟司と、「思い通りにならないから苦悩が生じる」という仏教の視点から、「思い」のコントロールによって苦悩を調えようと説くスマナサーラとの対談を、僧侶であり宗教学者である釈徹宗が聞き手としてまとめている。
養老は、解剖を仕事として遺体と接する日々を過ごし、見る自分がいないため自分の「死体」は存在せず、近親者は「死体」にならないので遺骨を拾う必要があり、赤の他人しか死体にならないと実感したという。
スマナサーラは、死をごまかすと人間の心は成長しない、しかし自分の死は理解できないから、他人の死をとことん観察して自分の死を認識することで、現実をありのままに認めて生きることができるようになると説いた。
ここ数年のうちに、身近に感じていた人が3人亡くなった。一人は祖父、二人は友人であった。残念なことに、その誰一人の葬儀に立ち会うことができなかった。調子があまりよくないらしい、とは聞いていたが、まさかそんなに突然彼岸の人になるなんて思っていない。
私は、きちんとお別れができないと、その人たちが自分の中で何かの殿堂入りを果たしてしまうようだ。そろそろ祖父は自分の中のスーパーヒーローのようになってきてしまったし、友人らのことを思い浮かべながら、なぜ私は生きているのかなどという妄想にふけってしまうこともある。
死者儀礼は「近親者の死を認識するため」に行われるという。世界には火葬、鳥葬をはじめ、ありとあらゆる埋葬法があるということは、実は埋葬手段には「必然性がな」く、手段の違いは「文化の違い」なのである。近しい者の死を誰かに伝えない、というのも文化の一つなのだろうか。
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