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締切の効能

 締切とは、終了する決断を委任するシステムであることに気づいた。

 「x時間でy字の文章を1本書く」ことを目標にして、文章を書いてみた。
 成果は出た。そのボリュームの文字のまとまりは生成された。
 しかし少し時間を置いたら誤字発見どころでなかった。結局その後大幅に削り、書き足し、最初に伝えたかったものとは少し違う決着になった。

 目標設定がまずかったのだと思う。
 今回の時間制限は「道半ばで終わりにした」だけであった。かなりディスカウントした目標を、一応クリアしたつもりで帰ってきたようなものだ。
 いや、もう少し違っていて、その量を書くことはできても磨きをかけるために、その中でもとりわけ書き残したいところを選り抜くために、熟成させる時間は必要だった。「実際には作業をしていない時間」も、必要な時間として設定せねばならなかった。

 一昨年夏から秋にかけて、毎日1記事ずつ書くチャレンジをした。寝てなくても、キャンプ中だろうが書いた。
 あの時は純粋な創作意欲ではなく、鬱屈した気持ちを、書くことで発散できるか試していた。3ヶ月余り続けた結果、「なんやかやで1日一本くらい書けそうだ」という見込みができたはラッキーだったと思う。

 つまり、あの目標設定で書けたのは、一昨年のクオリティのものであった。何とか一本できた感じであっても、もう一声が足りない。
 今は書くだけなら苦ではない。やり込みたいのは推敲の段である。どこまで取り除いても、伝えたいことが過不足なく伝わるギリギリを攻めたい。

 これまでの人生で、工作やら洋裁やら、クラフト系の趣味を幅広く嗜んできた。職人気質と言われた。「これくらいのもの」を「これくらいで作る」ことに力を注いできた。「あなたの作りたいものを作っていい」と言われても全くピンと来なかった。

 しかし文章を書くことについてはアーティストの立場をとるのかもしれない。終わりがない。だからこそ結局締め切りが必要になるのか。

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