泉鏡花作品にみられる日本的感覚
―中尾
先日、日本の映画チャンネルで「夜叉が池」という映画を観たのです。
―澁澤
ほう、泉鏡花ですね?
―中尾
そうです!ご存じですか?
―澁澤
当然です。
―中尾
本でお読みになりました? それとも映画ですか?
―澁澤
私は本で読みました。映画は見ていません。
―中尾
今まで私が影響を受けた方々に、なぜか泉鏡花を好きな方が多くて、とにかく「高野聖」は読めと言われたんですが、読めないんですよ。どうしても苦手なんです。
―澁澤
中尾さんが苦手な風景ばかりですもんね。ヒルがぼたぼた落ちてくるとか…
―中尾
いやいや、そこまでもいけないんですよ。文章が読みづらくて(笑)
―澁澤
昔の口語文で書いていますからね(苦笑)
―中尾
そうなんです。入ってこないんですよ。で、これはもう無理だと思ってあきらめていたのですが、映画を見つけたので見てみようかなあーと思って。
今までは「夜叉が池」という名前だけで、もう怪しいと思ってしまって、怖いんだろうなーとか、私はお化けも嫌いなので、お化けの出てきそうなものとか、不気味な感じのものは見たことないんですよ。
だけど、まあ大人になったし、ちょっと見て嫌ならやめればよいやと見始めたのですが、これがすっごく面白かったんですよ。
―澁澤
「夜叉が池」って本だけで読むとね、ラフカディオ・ハーンのにおいがしますよね。
―中尾
そうです、そうです。ラフカディオ・ハーンは小泉八雲ですよね。「耳なし芳一」とかも、だいぶ大人になってからようやく紙芝居で観ることができた感じ。怖そうで、苦手だったんですよ。
―澁澤
山陰地方の湿度の高い文化ですね。
―中尾
日本海側の物語という感じですよね。
今回この「夜叉が池」を観て思い出したのは、佐渡島の「山居の池」の伝説があるんですけど、その物語とそっくりなんですよ。
大蛇と人が結婚するわけないんだけど、実際に池が存在して、すぐそばに村があってその物語に出てくる和尚さんの朽ち果てた庵も存在して、本当にあったのか、空想なのか、どっちだかわからないようなことをその土地の人がずっと昔から語り継いできた話って好きなんです。
それを佐渡島で聞いたときも、ちんじゅの森の民話語りチームで合宿にして作ったのですが、数ある作品の中でも一番好きな物語です。
日本の池って、必ずと言ってよいほど、池の主というか精霊がいるんですよね。それは大抵大蛇か龍なんですよ。大蛇がそこに棲んでいて、人身御供で、誰かがその主のところにお嫁に行ったりとか、大蛇が恋をしたりだとか、というお話なんですが、今回もとても似ているのです。
―澁澤
芸術の時に少しお話したように、文字で伝わることと、映像で伝わることは違っていて、中尾さんには映像が響いたのでしょうね。
その響いた一つの原因として、実際に佐渡島でそういう場所にいてそういう経験をされたことが、ぱっと結びついて、そこで共感が生まれたんでしょうね。
―中尾
なるほど…「共感」なんですね。
面白いのは、人間界と背中合わせに自然界があって、背中合わせというか一体なんですけどね。自然界にも人間界と同じような、例えば鯉だとかカエルだとか、そういうものの精霊がいて、彼らの暮らしがあるのです。そっちはそっちで、池の精霊が山一つ越えた向こう側の池の精霊に恋をしているのです。で、彼に会いに行くにはこの山を全部川に変えないと会いに行けないのですが、昔々、人間と精霊との間に約束事があって、それは、一日に3回この鐘を鳴らさないと洪水にするよというので、人間は約束を守って毎日3回鳴らし続けているから洪水を起こしてはいけない。でもそうするといつまでたっても山の向こうの愛しい人には会えない。こっちはこっちでそれをやめてしまったら洪水が起きてしまうので鐘を鳴らすのはやめられないし…というお互いの心のせめぎあいなのですが、お互いにそうやって自然を維持しているわけですよね。
それはね、昔はわからなかった。今なら、私の背中合わせのところにもう一つの世界があるというのが、ちょっと怪しい人に聞こえるかもしれないけど、感じるんですよね。
―澁澤
アイヌの自然観がそれですよね。
アイヌの自然観は神の世界がまた別に合って、それは背中合わせで、クマがその肉と毛皮をもってやってくるという。くっついているんですよ。
いろりに神様がいて、非常に近いところにいますし、アイヌのイナウという削り花がありますけど、それは白山信仰(それだけではありませんが)、特に日本海側の依り代として飾り花というものがたくさん作られていますし、日本海から続いて行く文化の系統かもしれませんね。
―中尾
面白いですね。あの感覚でいれば自然が大事というか、いつも自分と離れないで考えていられますよね。
―澁澤
もう一つは過去と未来が同居しているようにだんだんなってきますよ。年を取ればとるほど。
―中尾
過去ですか。
―澁澤
時間軸がなくなってきて、向こうとこっちの差がなくなってきます。
そして、全部消えた瞬間に向こうに行くのかもしれませんね。
―中尾
なるほどね。それ、楽しいですね。誰も観たことのない世界ですもんね。
―澁澤
そう考えれば楽しいですよ。
だけどそれは物理学的にもあらわされたりするわけですよ。数式の中で。だから、まあ人間が考えること、感じることは、後追いで法律ができたり、あるいは科学ができたりという形になっていくわけですから。みんなそれは自分ひとりじゃなくて、多くの人がそう考えたのでしょうね。
―中尾
なるほどね、ずーっと考えてきたのですよね。
―澁澤
近江商人が三方好しといったその三方には、過去も入るし未来も入るし自然も入る。売り手良し、買い手良し、世間良し。世間の中にたくさん入ってくるわけですよね。
―中尾
そうですよね。やっぱりそれは語り継がなきゃいけませんよね。
―澁澤
その背中合わせの世界があるんだということを信じると、それは人間を謙虚にしますよね。
―中尾
そうですね。
―澁澤
そういうことを感覚として、泉鏡花は持っていましたね。
何も今回の作品だけではなくて、泉鏡花の先ほどから出ている作品って、全部その匂いがしますよ。とっても日本的です。
―中尾
そういわれたら、他も読んでみようと思います。
澁澤さんは泉鏡花のどんなお話がお好きですか?
―澁澤
「歌行灯」っていうのが好きなんですよ。
一番最初のところで覚えているのは、桑名のステーションにおっちゃんが二人降り立つのです。
―中尾
四日市の方ですか?
―澁澤
そうそう、桑名の焼き蛤というのが出てきます。
ラッコの毛皮なんか着ているおっちゃんなんです。
―中尾
そんな話なの?
―澁澤
はい。そこから宿に行って、芸者さんを呼んで踊りを見たりするんですけど、納得いかないんですよ。まあこんなもんかなあと思っている。
実はそれは当代一の鼓の名手と、当代一の謡の名手のおじいちゃんで、国宝になろうかというような二人連れのおじいちゃんの気ままな旅なんです。
―中尾
へえ~。カッコイイ!
―澁澤
それで、踊りに全く納得しないんだけど、一人だけ謡曲の舞いが舞えますけど、うちの本当にダメな芸者なんですけど…と言って、ひとり紹介されるんです。その子の舞いがまさに、芸事が人の心を打つという話。ただ一曲、その舞いだけは、その二人の心に響くのです。そんなような筋だったと思います。
―中尾
人間として、芸を身につけるのって、背景というか、物語があるんですよね。
―澁澤
芸というのは形だけじゃなくて、その後ろにある背景とか、言葉にならない部分の、先ほどは湿り気ということを言いましたけど、そういうような感情を物語にするのがとてもうまい人が泉鏡花ですね。
―中尾
昔も今も人間の心は変わらないってことですね。
―澁澤
変わらないですね。泉鏡花の話の筋を覚えているかというと覚えていないものが多いのですけど、向こう側に伝わってきた感じというのは自分の人生のある時期に、例えば失恋をしたあととか、物事に行き詰った時とかに読むと、心のこの部分に戻れば良いんじゃない?というような、そういうものを与えてくれる作家なんですよ。
―中尾
まさに、それが芸術ですね。それが心を豊かにするんですよね。
この年になって、いろんなものが面白いと思えるようになったので、発見がたくさんあるんです。いろんなことが楽しくなり始めました。
―澁澤
良かったですね、「夜叉が池」に会えて。
―中尾
そうなの。知らなかったことを、この年になって知れるというのがうれしい。
―澁澤
いつも発見があるのが良いですね♪
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