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八月二十三日(前編)

8月23日は、母方の祖母の命日だ。今年でちょうど30年になる。

祖母は明治35年生まれ。乳母日傘で育ち、女学校では庭球部にいたという意外にアクティブな過去も持ち、本当は上の学校に進みたかったらしいけれどそれは叶わずに、国文学の先生をしていた祖父と結婚し、6人の子供を持った。

最初の息子はレイテ島で戦死。二人目の息子も幼い頃に疫痢で亡くしている。そして終戦の前年、 祖父の赴任地である北九州戸畑で、43歳にして、末っ子である私の母を生んだ。

祖母にまつわる最初の記憶は、幼稚園の夏休みの風景だ。三重県の津にある一人暮らしの小さな家。足の裏に触れるつるつるに磨かれた床板。廊下を走るとびりびりと揺れる薄い窓硝子。大きな鏡台に、紫色の綺麗なガラス瓶。畳の上に置かれた立派な黒い木のベッド。庭ではミッキーマウスの赤いビニールプールが待っていた。

母が「おかあさん、きたよお」と玄関脇の小窓から声を掛けると、扉を開けてくれた。おかあさんが「おかあさん」と言うのが、幼い私には面白かった。

「待ってたよ。よう来たねえ」

瓶に入ったよく冷えたキリンレモンを、いつも私のために用意しておいてくれた。家では「お行儀が悪い」と叱られるラッパ飲みもここでは許してもらえたから、ちょっといばった気持ちで飲んだ。

祖母は時々、おしゃれなグッチの黒いボストンバッグを持って名古屋の家を訪ねてくれた。ひとり電車とバスを乗り継いで。 知り合いの会社の仕事を手伝ったり、 海外旅行にも出かけしたりもしていた。80歳を過ぎても、真っ白な髪をふんわり綺麗に整えた、笑顔の上品なおばあさんだった。

私が小学校4〜5年生の頃から、「印鑑をなくした」「通帳が見つからない」 、そんな出来事が増えていた祖母は、うちに滞在することが多くなり、やがて一緒に暮らすようになった。

家を空けることが多かった母を手伝って、家のことをいろいろやってくれた。 「おばあちゃんがいると助かるなあ」と言われて、誇らしげにしていた祖母。

でもいつの間にか、祖母が洗うとぴかぴかになってたはずのお皿は、洗ったのか洗ってないのか分からないくらい曇っていった。 電話を取ったのを忘れる。トイレを汚す。「まだ食べてない」と言う。汚れ物を隠す。見えないものが見える。

痴呆症とか、ましてや認知症とかいう配慮された言葉はまだなくて、容赦なく「ボケ老人」と呼ばれるものになっていた。

夜中になるとごそごそと起き出す。 廊下に気配を感じて、私も目が覚める。

「どうしたの?」
「いや、正子がな。あの子は、おねしょするから、起こさんと」

祖母の目は、幼き日の母を見ていた。嫌だ。信じたくない。嘘だと思いたい。本当の場所に戻って来て、そして安心させてほしい。だから私は精一杯ヒステリックに、まともなことを叫ぶ。 「だって、だって、その正子はもう40過ぎてるよ!」

その声を聞きつけて母も起き出してくる。おばあちゃんを連れて、ベッドに寝かしつける。

部屋に戻ると泣けてくる。 なんでもっと優しくできないんだろう。

祖母はおでかけをするとき、いつも洒落た良い匂いをさせていた。昔の女優さんが使っていた素敵な名前の香水だったと思う。うちに来たときもそうだった。

でも、祖母の部屋からは、だんだん嫌な臭いがするようになっていた。6畳の和室に、病院みたいな冷たいスチールのベッドと、新聞紙の上に置かれた簡易トイレ。そこに撒く消毒薬と排泄物が混じった臭いだ。オムツが換えやすいように、 化繊の宇宙服みたいな奇妙なつなぎを着せられていて、廊下を歩くとシャカシャカと衣摺れのような音がした。

昼間の話し相手にと、知り合いのおばさんが時々来てくれていた。「自分の母親がボケた時にはほうきで叩いた」という人。でもおばあちゃんのとんちんかんな話には優しく、うんうん、そうだね、とうなずいてあげている。

ずるい。
うちのおばあちゃんで自分の罪滅ぼししないで。
優しい振りして、適当に話合わせないで。
バカにしないでよ。

思っていたけど言えなかった。
私は、優しくできていないから。

母のことがわからなくなった。
私を母と間違えたりもした。
日によって登場人物が違うみたいだった。

私は時々、ひどいことを言った。
二人で留守番することが多かったから、その間、なにかアクシデントが起こるのが嫌で、とにかく、じっとしていて欲しい。身勝手な幼い看守だった。

夕方になると「まだ役に立っていた頃の記憶」がよみがえって来て、お醤油を入れた鍋を火にかける。

「危ない!そんなことしなくていいの!」
「お皿洗っても、また洗いなおさないといけないんだから、やらないでよ!」
おばあちゃんは「おお、こわ」とちょっとおどけつつ、寂しそうな顔をする。

トイレを汚されるのが嫌だという理由で、こんなことも言った。
「オムツしてるんだから、そこですればいいの!」

ふとあの凛とした明治女の目つきが戻ることがある。

「あんたな、ようそんなこと言えるねえ」

母がまだ結婚前、父とのデートで帰りが遅くなって家に帰ると、電気を消した居間で正座して待っていたという祖母。そろそろと家に入る母を見咎めて 「そこに座んなさい。それから、あなたも」 と、父も一緒になって正座させられて「いいですか」と、懇々と説教されたらしい。

本当なら、私もまだ叱ってもらわなきゃいけないのに。

夕ご飯を作ろうとしたり、夜中に子供をトイレに連れて行こうとしたり、祖母の不可解に見える行動はいつも、誰かを思ってのものなのに。ベッドに入ってから、声を潜めてめそめそと泣いた。

お風呂場からは、母の金切り声が聞こえる。思うように動いてくれないからだろう。口を真一文字に結んで、意地を見せているおばあちゃんの顔が想像できた。

あんなにきつい言い方、しなくてもいいのに。少し離れるだけで、こんなにも勝手な考えが浮かんだ。

知らない間に家を出て、徘徊することが増えた。何時間も見つからなくて、暑い日の昼過ぎ、真っ黒に日焼けした姿で草むらで横になっているところを発見されたこともあった。家族全員が疲れきっていた。「介護」なんていう言葉はまだ聞かれなくて、人に話すことも、話して理解してもらえることも、ほとんどなかった。

時々、今で言うデイケアみたいな病院に預けるようになった。看護婦さんたちは、献身的にお世話してくれた。便秘に苦しんでいた祖母の便を掻き出すなど、下の世話まで、嫌な顔ひとつせずやってくれた。

「郁子ちゃん、よくできたねえ。すごいねえ」

そうあやすように言われるのを見ると、でも悔しかった。
誇り高き明治女なんだからね。
子どもあつかいしないで。
バカにしないでよ。

言えるはずがなかった。
私は、何もできていないから。

やがて、家の近くの小綺麗な施設で暮らすようになった。面会に行った母は、お習字の作品が廊下にずらっと飾ってあってね、と言う。祖母は流麗な文字を書く人だった。「おばあちゃん、やっぱり上手だったでしょ?」と聞くと、首を振って、「名前のところに、私の名前。正子、って、書いてあったわ」と言って、ハハッと声だけ笑った。

小学校を卒業した私は、お勉強のできる女の子が集まるとされる学校に入った。祖母は教育に熱心だった。私が通信簿を見せると、にこにこしてたくさんお小遣いをくれた。母が中学生の頃は「学年で一番取ったらバナナ一房買ってあげる」と当時の高級フルーツでハッパをかけたらしい。

今思うと、自分が叶えられなかった進学への思いがあったのかもしれない。私の中学合格も「ようやったなぁ」と褒めてくれたと母から聞いたけど、その頃はもう、どこまで意味がわかっていたのか、わからない。

中学1年生の冬頃だったと思う。

突如として「長男としての責務」に目覚めた叔父さんが 、「自分が面倒を見る」と施設を探してきて、祖母を入れた。きっと、最期が近いと思ったからだろう。

これまで「お前がいちばん若いから。元気だから」と言って、母に何もかも任せていたのだったけど、この時は、とにかく従わなくてはならない雰囲気だった。

三重県の山の中にあるその施設は、寺院が経営しているとかで、施設内に大きな仏像があって、仏間の前の廊下は薄暗く、静かで、お線香の匂いがした。私はあんまり好きになれなかった。

「清潔そうだし、うん、いいところじゃない」。 自分を納得させるようなことを母は言っていた。

玄関の三和土に、鳥かごがぶら下がっていた。
「仲間になりました。よろしくね」と書かれたメモが付いている。黒い小さな九官鳥だった。

<つづく>

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