多数決について考えてみる
コメダ珈琲が好きなのでコメダ珈琲集合と言われた日にはテンションが爆上がりの以下同文です。
いつも僕はnoteの記事をある程度考えてから書き出しているのですが、今日は何も考えずに「多数決について考えてみる」というテーマで書き出したいと思います。
多数決とは何か?
多数決とはその名の通り「多くの人が決めた意見を採用する方式」だそうです。
「そんなことは分かっている!」とお叱りの言葉が飛んできそうなほど、当たり前の説明ですね。
ただこのことを説明できる人や理解できる人はいてもいざ多数決をとる際にこのことを改めて考えることができる人は実は少ないんじゃないかなと思っています。
僕が学生の頃の話になりますがゼミの中での決定が多数決で決まることがよくありました。
そのゼミでやるべきことが「多くの人がやりたいことをやる」ならばそれでいいのかもしれませんが、「新しいことをやる」や「面白いことをやる」みたいなテーマならば多数決で決定するという決定すら間違っています。
ですが僕らは何故か無意識に多数決という採用方法を取ってしまいます。
時には多数決をするかどうかを多数決で決めるみたいな事態も発生しました。
どうしてそのようなことが発生するのか?について今考えながら書いていて、「ちゃんと多数決を考えていないからじゃないかな?」という結論を一度出したのですが書きながらそれも実は違うのかな?と思いました。
呪いのように解けない魔法
僕が出したもう一つの結論としては「多数決以外の決定方法を知らないorいけないものだと思い込んでいる」です。
そもそも僕らは多くの決定(特に公の決定)を行う場で多数決という方法を多く取ってきました。
例えばクラスで学級委員長を決める際に立候補自体は自薦だったり他薦だったりしますが、その際の決定は多数決で行っていた気がします。
これは日本の選挙システムがそうなっているからそれに倣っている部分は大きいと思いますがそれは置いておいて、この方法ばかりで決めると自然とこの方法しか知らない状態になってしまいます。
しかしながら公の決定以外ではこの方法以外もよく取られている気がします。
例えば休み時間にどんなスポーツで遊ぶか?とかは割とガキ大将的な人が大きな声を出して独断で決定していたように思います。
では何故この方法が公の決定の場では採用されないのでしょうか?
個人的に考える理由としては「歴史的トラウマ」が原因であるように思います。
それは例えば「ナチスドイツ」や「オウム真理教」みたいなものがあると思います。
国と宗教ではありますが独裁的な決定方法をどちらも取っていて、結果的にそれが多くの被害を生んだことも同じです。
そのことから独裁が最終的に行き着く先は多くの被害を生むことと無意識のうちに考えてしまうので公の場では否定されてしまうのかな?と思っています。
しかしながら僕が尊敬するスティーブ・ジョブズ氏は社内で完全に独裁体制であったと思っています。
だからこそiPhoneなどのイノベーションが生まれたしあそこまで世界的な会社になれたのだとも思っています。
こうしてみると多数決も独裁もあくまで「決定方法をの一つ」に過ぎないと思います。
それのどちらが適切なのかどうかをきちんと考えて運用していくことが大事なのだろうなと思います。
今日は多数決について考えてみるというテーマでした。
以上以下同文でした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?