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シマウ心地よさ piece_vol.57

今朝の空はとても軽かった。
軽やかだなーとか思いながらそれでももう秋風の気配に変わっているのを感じながら駅までの道のりを楽しんだ。

職場でちょっとしたアクシデントがあり、それまでの作業がやり直しになる見通しになった。原因は上層部で決まっていたことが何処かで止まっており、下りてきてなかった事だった。まあよくある話しなのだけど。それが上層部からの「今更だけど」というメールで知らされた。
長年携わってるあるスタッフは「まあ仕方ないよねー。またかって感じだし。いつもそうだよねー」と言っている。今の業務はそれ程経ってない私は「いつもなの?どうしてるの?」と聞くと、はいそうですかと新しい指示待ちでその通りに改めておしまいだと言う。

うーん、私にはそのそれが当たり前感覚がまったく解らない。なんで疑問に思わないんだろ?
管理者へ私の意見として「オカシイですよ?」と伝え、先程のスタッフからはやれやれという目で「そういうもんよー」と言われる。その方へは「まー、(長いものに)巻かれるの好きじゃないもんで、自分の意見だけは伝えました」と言い、そこでおしまいとなる。

ここまでの一連の流れと実際の作業中は、ドップリ現実にはまりこんでいた。
ただ以前と違うのは、むちゃくちゃ違和感は感じたのだけどその後の自分から出てくる言葉には怒りや誰かを責めるものは乗っておらず、自分の中にも怒りは湧いておらず、でも自分の意見だけは淡々と伝えていた。だから言うだけ言ったら後は何も残らない。

ちょっと離れてから「ああ、お試しだなぁ」と感じる。以前から散々この「当たり前をよしとする」風潮に怒りを爆発させてきたから、「さて、今回はいかがかな?まだ反応しとるかい?」と同じような感情が湧くケースを与えられる。で、自分の変化を確認させられる。
ふぅ~、と思う。

いまの現場では「変わりたくない人たち」に対する事を散々教えられてきている。
様々な人がいて人それぞれでいいということ。それは当然でわかってはいたのだけど、こと「職場」に関しては「仕事なんだからより良い方向へ変えていくのは当然」というのが私の根底にあった。そのままではこうなるのがわかっているのに、なぜ事前対処しないんだろう?と疑問だらけだった。そして誰もその事に疑問を抱いてない。不思議でしかなかった。私が言うことに対してよく「そんな風に思ったことなかった」と言われた。

「変わるのがあたりまえ」という私の概念をぶっ壊すしかなかった。それすら当たり前ではないということ。
森羅万象「変化」しかないのだから、どんなものでも変わるのが自然なこと、というのが元にある私は日常すべてがそれありきになっている。
変化するのは自然なことなのだけど、そう思えないのが当たり前な人もそれでいいということ。変える必要もないということ。その人はそのまんまで、本当に充分なんだ。
そこら辺にずーっと自分の正当論を振りかざして来たんだろうと思う。これみよがしに。

ある時なんとなく「ああそうか」となり、それからはスーっと楽になった。そのまんまでいい。誰も誰しもこの自分も。意見の同調はしないけど、そういう見方もあるねと思いそれ以上も以下も起こらない。


ああそうか。
いまの現場は私の「生きるためにお金を得る」という概念の取り壊しだったのか。
「職を得て仕事をする」ということは私にとって今まで「生きるため」ということだったから。そうせねば生きてこれなかったから。仕事で自分を発揮し認められることで自分というものを保ってきたから。そこに「自分の存在」を感じていたから。

少しずつ少しずつ自分の中で変化が起こり、自分のなかにあるガチガチに凍り付けされてたものが、ここ数年で溶け始めてきていた。
いつの間にか「生きる」という意味も変わってきて、「仕事」というものの視点も変化した。

少し前「神仏大いなるものからのcallingは何も大それた事ではなく、目の前にあるやるべき事を淡々とやること、やらせてもらうこと。それ全てがcallingであり御仕事である」というのに触れ、ストンと腑に落ちた。
それまで幾度も触れてきた言葉だったけれども、「頭の理解」で「知っている」だけだった。
ああそうか。「仕事」というものの捉え方が根本から違ってたのか。そしてそれをずっと自分の支えとして生きてきたのか。なるほどなー。
「御仕事」ってステキだな。生きてるすべてが御仕事なんだな。

だから今の現場に呼び戻されたのか。それを身をもってわかるために。
ありがたいことだな。

色んなことかシマイをむかえてく。
くるりくるりと今までの持っていたものが引っくり返され、新たな面を観るか入れ換えが起きている。様々な面でそれを感じる。
シマイを迎えるということはどこかでハジマリが起きてるわけで、それはもう楽しみでしかない。

シマイを迎えられるという安堵感がゆったりと身体のなかをめぐって心地よい。
シマイが現れるということは流れてるから。
この安堵感は"留めてない"という安堵感なのかもしれないな。
変化し流れているものを「自分」という概念で滞らせてしまわず、少しずつでも「自分」というものが緩んでいるという目安のようなものだから。それすら概念ではあるけれども。


移ろいのなかで
なんだかあったかいものが
どんどんひろがっていく

心地いい


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