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いま そうである というだけ

お水さんがまた柔らかくなった
春の陽気になって風があたたかくて あ~なんて気持ちいいんだろう
街行く人も軽装で足取り軽くて笑ってて 暖かくて天気がいいというだけでこんなに緩むものなのね 軽くなるものなのね



今使っている眼鏡がフレーム壊れ気味で 完全にダメになる前にどーにかせんとなあと重い腰を上げた
前に作ってからもう結構経っているし いわゆる老眼というものも入って来ているから見え方も変わってきている

眼鏡屋さんで検査してもらって色々お話聞いていたら 最近は20代くらいの若い人も遠近両用メガネにする人も増えて来ているそーな

へ?老眼がそんなに早くから?と思ったら スマホとか目の近くで物を見る時間が増えることで視力低下してーとかなるらしい
ほぅなるほどなー でもってここでひとつ気が付いた

ああそうか
近くが見えないというのはイコール「老眼」じゃないのか
「歳のせいか手元が見えづらくてねぇ」という周りの言葉で 近くが見えない=老眼 と私の中では直結していたけれど よーく考えりゃそりゃそーだ
「老眼」って名前が付いているけれど『状態』の事だもんなぁ



近くが見えにくい状態 がその時あるだけなんだ
それがその時”起きている事”であって そこに「歳のせいで」がつけられてストーリーが始まっているのね
まあでも 年齢を重ねることで身体の機能としてのその部分が若い頃より弱くなっているからってのもあるから間違ってはいないのだけど そこに「老眼」という言葉が付くことで何だかイメージとしてマイナス的になっちゃってて そういう現象が起き始めた時に「老い」というものへの抵抗みたいなものが出ちゃう事があるんだろうなあ

実際は 今そういう状態である って事だけなんだけど
こうやってコトバによって沢山の操作的なものが染みついている
それも全部自分で自分にかけてしまっている

特に身体に関する事は 実際その状態になってみるとものすごく沢山のものが出てくるし とても敏感に「自分」が反応するから分かりやすい
それは きっとどこかでこの身体が「自分のもの」と強く強く定義づけて掴んでいるから 
そして それが損傷されると「自分がなくなるかもしれない」に直結してどこかで考えているから かもしれない



けれど
どんな具合であれ 「今その状態にある」だけ に落ち着いてみると わんさか湧いて来る ”こうなちゃうかも” ”こうに違いない” とかいう暴れ思考は 少しはおとなしくなる かもしれない

今この状態にあるだけ というのは何も身体の事に限らず どんな時でもそうであって 起きている事の事実でしかない

そこでちょっと踏ん張って思考や感情に巻き込まれずスキマが出来れば 本来のじぶんの真ん中からの視点になることが出来るかもしれないし 「どうすれば」を流れにお任せ出来るかもしれない

どうすれば という手段は 自分の仕事じゃないから



それよりも

ああ今思考があばれているなあ いま感情が揺さぶられているなあ と 外側に引っ張られてる自分に気づいて内側へベクトル戻すほうがだいじ

ベクトルが内側に向くと「じゃあこうしてみよう」「こう出来るかもしれない」と ”柔らかさ”から何かが湧いて来てココロも軽くなる
「どうしたら」から絞り出す手段とは別物で別の感覚

それはまるで
自分の中のもっと賢いじぶんに
助けてもらうような感じ

自分という小っちゃいわれでは
もうどーにも出来ないからって
降参する感じ

でも助けてもらうのは 誰か じゃなくて
賢いじぶん であって
つまりは本来のじぶん



いろんな形で
本来の が確信に変わっていき

今まで「自分」と思っていたものが
少しずつ静かになっていく



「自分が」頑張らなくても
大丈夫になってくる



まとっていた頑張りの「自分」ではなく

本来の じぶん が

あなた であり わたし



さて
コトバをどこまで外せるか

ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。