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つまりはそのままでいい piece_vol.93

近くの神社がお祭りで、朝散歩で立ち寄ったら、境内すべてがオヨロコビで充ちていた。
下から湧きあがるような、歓喜の少し手前のような。
歩いてるだけで大地から伝わるエネルギー。

ああ いいなー
こういう感じ いいなー

雑念のない
オヨロコビだけのエネルギーが
湧き充ちている 朝の境内




朝陽はホントに特別で
何でこんなに違うんだろう

身体への浸透が全然違うし
細胞ひとつひとつにアプローチして
目覚めさせてくれる

出来れば街が目覚める前の
静けさのなかで
朝陽を浴びれたらサイコーだな

静けさのなかの
深呼吸とともに
大地と 太陽と すべてと
つながる



どーなんだろうなぁ
何がベストなのかなぁ

人にはそれぞれの世界があって
それぞれの世界観があって

それって
思想的にそうだよねーって話じゃなくて
みーんな違う世界に住んでるのね
違う宇宙って言ってもいいかもしれない

自分の世界には
自分しか存在していない

あなたの世界には
あなたしか存在していない

それなのに
誰かがいるとして
自分の宇宙は構築されてる
かのように 思えるし

他の誰かと何かを
共有している かのようにも思える

すべてはその
思えてる 感じてる という所から
この身体システムを使って
創造性へと繋がり
現象へと変化するのだけれど

それってやっぱり
「自分」という
個別に存在するものが
実在としてある というのが
前提のオハナシで

だから
もっとより良くして
ステキな人生を歩もう とか
思い通りの未来へ進もう とか
いわゆる世の中にはそんなものが溢れてる

それはそれでいいし
全くもって問題もない のだけれど

別の視点からすると

そもそも
確固たる個人というものは
実在として存在してないし

「自分」という個別のものがないのだから

自分の人生を好転させるには とか
その発想自体がずれてくる



どっちにしろ
この地球上で生きているんだから
マボロシとわかった上で
「自分をよりよく」楽しく生きてければ
それでいいんじゃない? という
考え方もあるだろうし

真実そのものを深く知りたいし
それで在りたい
という考え方もある

どちらもそれでよく
合っても間違ってもいない

どの視点 との角度 から現れてるか
の違いだけだから

そしてその違いが
あってこそ だから



しきの世界は
"身体あっての自分を楽しむ世界"
とも捉えることは出来るから
それはそれでいいのかな

確かに今までにない流れが起きていて
「個々の自分」を極めることで
そこから破れるものもあるのかもしれない

もしくは
全くもって今までにない
エネルギー転換が起こるか

そこらへんは
知り得ぬもの だから
想像で妄想するのもいいけれど
その粋を出ることは ない



個人というものがある
という視点から観れば

気付いてるからどーの とか
何の気付きもないまま一生終える とか

それのどっちが幸せで
どっちが生きてる意味がないとか
そんなのも出るのかもしれないけれど

それらすべて
比較 と ジャッジ の世界で
そう捉えたのなら
そう捉えた世界が
その時のその人の世界
ということのだけで

そこでシマイとなる


それも
それでよくて
それすら 赦されていて

それだから いい




あらゆるすべて が
あっていい

あらゆるすべて しか
ない

そこに「自分」という
概念があってもいいけど

自分という確固たる個人とする
誰か は存在しない


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。