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素が思い出されようとしている piece_vol.78

とんでもなく嬉しい時というのは、言葉にならないもんなんだなー。

最近は誰かとお会いしたりした時、こちら側の何かと人を含めたその場の何かがふわりと相まって、なんとも言えない幸福感のようなものを感じたりします。
言葉で会話してるのだけど、それに含まれる何か、ニュアンス的なもの、感覚的なもの、言語化出来ないもの、そんなものが自分の感覚と共鳴したときなのかそうでないのかはよく分かりませんが、理屈ではない嬉しさヨロコビのようなものが身体中を駆け巡ります。

何かをしてもらって嬉しいとか、そういったのとはまたちょっと違う感覚です。
身体の奥底から喜んでいるような。

きっとこの言葉に現せないヨロコビの感覚って、それがニンゲンの本来誰でも持っている共通の特質なんじゃないのかしらんと思ってみたりします。
ヨロコビや安らぎ、言葉にすればそんなものが、この身体というものを使って味わえる特権のような。
身体があるからこそ体感というもので元々のそれらが違う形で倍増して楽しめる、みたいな。


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対極の世界ですから、片方味わうためにはもう片方を知っていなければ成り立たず。
今まではその片方、不安や恐怖や焦り怒りなどを存分(すぎるくらいに)味わって知って。
知ったからこそ安心や喜びなども解るわけで。

そのバランスと言うか、片方知った時点でもう片方もありますからどちらでも良いのだけれど、どーも不安要素的な方に方よりがちだったものが、「そろそろ素を思い出せ~」とばかりに流れが変わってきていて。

で、その「素」は、両極あるから不安だけとかじゃないんだよ~もう片方もあるよ~ではなくて。
両極あるから喜びも感じてね~のもっと奥に、そもそもそれしかないのよねん、と解るという。


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「解る」わけですから、理解であり言葉であり意味付けであり、それは自分であり自我なのですが、そこに何とも言えない感覚も絡まってるわけです。

そこら辺りから、じゃ、「そもそものそれ」って何だ? に繋がることもあるかなーと感じます。ネガティブから転換の逆パターン。そんなのが増えてくると嬉しいなー。

そんなのが想い浮かぶくらい、全体が軽く、緩んで来てるんだなーと改めて感じ。数年前だったらきっと想い浮かぶことすらしなかったでしょうし。


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軽くなってきているということは、それだけ昔蓄えたもう要らない荷物も沢山見えるようになってきているということでもあります。
でもその荷物らを処分しちゃえば、「素」を感じやすくなるのも今は簡単です。

見たくないところを観ずに、それと向き合わずに何とかすり抜けるということは、残念ながらないようです。
そういったものが自分のなかにある、ということを認めなければ、サヨナラしようがないから。
見なかったことにしてるということは自分のなかで「あるけど、ない」としてるわけで、「ない」と自分がしてるものを手放しようがありませんし「知っている」のでそこが絡まっています。

追い風が吹くにつれ、様々な形で「向き合わざるをえない状況」が現れてきます。
遅らせれば遅らせるほどバージョンアップして次に現れます。
気が付いて欲しいからそんな状況が来ているのに「気が付いてません」と見ぬふりすれば、「え?これで気が付きませんか? ではもう少し気が付きやすくするよう強力にしなきゃいけませんなー。それで気が付いてくれればいいのですけど。。」となります。


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そしてそれは、自分がやってます。
自分が気が付きたいがために現しています。

どこかでわかってるのです。
感じてるのです。
それ、もう要らんよなー と。

その「もう要らんもの」がわかるのは
本来のヨロコビらがうずきだしているからです。わかっちゃってる本心が早く出たがっているからです。


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そして

蓋をしてるのは誰でしょう?

となります。


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自分 と思っているもの

これまた面白い現れです。


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