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自分をゆるめるルートはいっぱい

自然栽培農家さんから新生姜を買った時に教えて貰った「生姜の味噌漬け」が美味しくてご飯のお供にいただいている

新生姜を薄くスライスして味噌に漬け2日経てばOKなのだけど もう少し放っておいて染み込ませてもこれまた美味しい

生姜を味噌漬けする発想がなかったのだけど
おにぎりにしてもいいし 他の料理にも使えるから便利だなーと喜んでいる

産直販売とか朝市とかで農家さんとお話する機会があれば 食べ方のお勧めとか聞いちゃって そんな食べ方が!となってみたり その道のプロの方のお話だから なるほどなーと出来そうなものは取り敢えずチャレンジしてみて楽しんでいる



グルテン減にしてから我が家に小麦粉はなく代わりに米粉がある
大抵のものは米粉で代用出来るしほかの粉もの(片栗粉とか)と兼用すれば事は足りることが多い
カレーとかシチューとか子供の頃は市販ルーを使っていたからそれが「我が家の味」となり記憶になっていて ルーはとても便利なのだけどそれなりに沢山の添加物も入っていたりするから 食材見直しした時に「買わない」としたけれど味的に記憶を求めてしまってお家で作る時にしばらくアララとなってたりしてた



子供の頃にインプットされた味の記憶とかは結構強力で「これはそういうもの」みたいなのを作ってしまっているから 大人になってからも時々その記憶が発動してその味が食べたくなったりする
でも そうだ(色んな余計なもの入っているよ)と知りながらも食べたくなった時には食べて満足を得ると そのうちだんだん自然にフェードアウトしていくようで いつの間にか今作る味が「美味しいね」と書き換えられいき記憶の味は「食べたい」対象から外れていくみたい



身体によくないという情報を得て「絶対食べない」とするのもアリだけれど それはそれで気持ち的に無理を伴う時もあるし 「よくないから」というこれまた反対側のジャッジを掴んでるのと同じことだから
そう と知ったうえで その時々の自分の感覚に任せてみたりしてる

そんなこんなを日々の日常で実験的に取り入れていると 記憶と言うものに結構左右されている事も多くて 記憶つまりは思い込み はもう生きてるあらゆるところに染み込んでるなーとつくづく感じる
それも知らないうちに 知らない所で



わたし 自分 というものを作り上げているのは
思い というもので
記憶 でもあり 過去 でもあり

丁寧に丁寧にその 思い をはがしていったら
そこに わたし や じぶん という
確固たるものは見つかるかしら



確固たる自分 というものはなく
記憶や思い なのであれば
それは流動的で変動的で
変えられる ってことになるから

だから
いつまでも こうでなければならない とか
そういった 自分をしばり止めておく思い は
とっとと流してしまって

その時その瞬間の自分が
心地よかったり安らいだりするそっちを
採用して取り入れていけば
そしてまた流して行けば
いまの自分はこうなのね と
それがその時の 自分となり
たぶんそっちの方が軽くて心地いい



記憶の解体 思いの解体

自分というものは
思いのカタマリだと 知れば
何らかの時にそれを思い出して
その思いは今の自分のホントウなのか?と
疑問を投げかけることが出来るから
また いま に戻ってこれる

カタマリを ゆるめることが出来る

そうやって
少しずつ少しずつほぐしていく
というルートもあるのね



それがやがて
エゴの思い と 本質の思い との
見分けや入れ替えに つながるかもしれない

日々 瞬間瞬間
どんどん変化し巡っていく

ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。