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無意識なアタリマエから意識的なアタリマエへ

魚屋さんに立ち寄って順番を待っていたら
前の家族連れの母親と小中学生らしき子2人が
焼き芋を食べながら一緒に居て
母親の方は食べながら
父親と共に店の人とやりとりしてる

まわりには干してあるお魚があったり商品があったり
そんな光景を見るとう~んなんだかなーと思ってしまう
一個人としてはお店で食べながら居て欲しくないし
ましてや喋って欲しくない

マスクは個人の判断となって久しいけれど
多分根本的な「何でマスク推奨されてたか」を
忘れちゃってるんだろうなー

今はかつての流行り病だけでなく
インフルエンザの季節でもあって
まあそれを除いたとしても食べ喋りながら
店内に居るってのがそもそもなんで
「お互いそういうリスクは減らしましょうねー」って思えば
自然とそういう行為にはならんと思うのだけど
だからマスクしてくださいではなくて(私もしてないし)
その食べ喋りながらの行為で
自分のものがどこかに飛んでるかもとは
考え及ばないんだろうなー



”なんでそうしているのか”

まわりがそうしてるから
規則で決められているから
そう言われたから

そんなので そうしてる と
それが解除されたり無くなった時
どうしていいか分からなくなるだろうし
この親子のように
それをすることでどうなるのか にまで
想像が出来なくなっちゃうんだろうなあ

立ち食い歩き食いがダメとは思わないけど
場所や配慮はしたほうが
気持ちがイイと思うんだけどなー



日常あらゆることで
なぜそうしてるのか って
自分に問うてみることは
結構大切だなーと感じていて

もう生活の一部になっているものは
そういうもの として一連の流れになってたり
本当は好みも変わってるのに
習慣でついそうしていたり
便宜上とか色んな理由や思惑がそこにあって

今はそれらの切り替え時期でもあって
自分がそれが心地いいから なのか
そうしている基準 を
外向きの思惑や理由理屈 から
自分のご機嫌さんや自分を大切にする
っていう ご自分主義 への変換



あまりにも今までが
そうだったから とか 外向き都合 で
普段の生活さえ無意識にそうやって来たから
染み込み過ぎちゃって疑問にさえ思わないのも
沢山あったりして

だから
気が付いたらひとつひとつ自分に聞いてみると
あれ? ってのもいっぱい出て来て
そしたら 今の自分に合うほうに変えればよくて
とーっても小っちゃい事を変えただけで
何だかスムーズになって嬉しくなったりして



いかに無意識に生活してきたか

そんなのにちょっと目が向くようになると
良くしよう というのとは別で
生活に というか 自分に対して
意識的になるきっかけになるかもしれない

それがいい ってわけではないけど
意識的になればなるほど
発見がいっぱいで 驚きもいっぱい


意識的になるってことは
いま に気が付いているって事でもあるから
かつて や いつか に飛んでられない

リラックスしましょ とは対照的にはなるけど
でもこの無意識的から 自分の心地よさへ変わっていくと
日常が 心地よさ になっていくから
自然とリラックスの方向へも流れてく

リラックスしよう ではなくて
日常がリラックス に



なぜそうしているのか
なぜそうしてきたのか

思い出すトキ

ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。