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パズルであり ピースであり

ピースが、出てくる。
ひとつ またひとつ と。

このヨの面白い所は、外に全部あるのだろうけど、ウチを観ないと外に見れないということ。
外を探してる限り、絶対に見つからない。
見えないから。

先ずは、ウチ。 内側。

ウチもソトも究極的に言えばないのだろうけど、そこを突き詰めるとややこしくなるから、何をするにせよ、先ずは自分のナカを観る。
見るではなくて、観る。
観て、感じる。
頭ではなく。 思考からは何も出てこない。
外側で遊ぶには、思考というツール(と思っているもの)で遊べる。 でも、そのツールを使っている限り、もれなくオプションで付いてくる「不安」や「悩み」「恐れ」のループからは飛び出す事は出来ない。 セットだから。

解った上で外側で遊んでる人は沢山いるし、それもアリだから全然OK。 それも楽しい。

人それぞれ何やってもどれ選んでも間違いはひとつもないので、その時ソコが心地好いのなら、それでいいと思う。 好みの違い。
そこに善い悪いは存在しない。
というか、そんなものもともとない。
有るように見えるのは、頭の中だけ。
頭の中で遊ぶのも楽しいから、それもOK。

それも飽きちゃったとか、解んないとか、違和感とか、疑問だらけとか。 何でもいいけど、であるなら、諦めてウチガワ観るしかない。
初めは怖いし観たくないだろうけど、仕方ない。 慣れたってエイッて気合い必要な時もある。

このヨの仕組みのひとつは2極性なのだから、
楽↔️苦は離せないし、「ラク」感じるには「ク」知らないと「ラク」なのかどうかさえ分からない。 どちらか片方だけご希望されても、出しようがない。 というか、それももともと存在しない。 これも頭の中だけ。

で、なんだっけ。
そう、ピース。 ウチガワお掃除しつつまったりしてると、そのうちちゃんとピースが出てくる。 まったりは、思考ループにはまらないで放っておくという意味で。 
出てくると言うか、在ったのが気付くようになってくる。 いやあなた、そこにいたの という感じ。
ここが不思議。 灯台下暗しというか、頭に上げてた眼鏡探してたというか。
いや、あったのよ。 在ったのは知ってたけど、なんだか知らないけど見えてなかったのよ。 ウチの詰りが取れた分だけ比例して気付く感じ。 だから、お掃除。

で、このヨの醍醐味はこの身体五感を使えるということだから、出て来たピースに向かい合う。 行動なり感覚なり。 それやってるうちに、次のピース出てくる。
その繰り返し。 そこに思考は、参加できない。 残念ですが。 アキラメテ。
諦めた分だけお掃除進むし。

「変化」で在ることを認めるしかない。
思考である「私」がこれ読んでるのだから、また思考になっちゃうのだけど。
それで外側に現れたナニカを「私」がやろうとするけど、 それで「私」がやってもいいけど、するとまたループ遊びにに入ってるんで。

ウチガワ観るのは、幾らでも情報溢れてるから、自分に合いそうなの試してみるしかない。それだって時と場合で合うのが違うかもしれないし。 「どうやって」と聞きまくるのは、もはや通用しない時代。 「どうやって」を繋ぎ合わせるだけなら、きっと外側ゲームからは抜けたくないのだろうから。 それくらい、「どうやって」の疑問に反応するものは至るところに転がってる。 アンテナ張って。

千差万別、人それぞれが自分に合うピースだから、その人にしか感じられない観え方がある。私のピースの感じ方は、私にしかわからない。
どんなに言葉を尽くそうが、そこは無理。
だって、みんな違うから。

ただ、理としての共通部分はあるだろうから、そこを拾って貰うしかない。
幾らでも拾っていって欲しい。
何でも。 どうぞ。 ご自由に。

本当に人の数だけ「ホントウ」があるから、そのために絵があり音楽があり文学があり自然があり。 色があり音があり香りがあり、動きがある。 国があり、星があり、数があり。 どれひとつとっても「間違い」はなく、「正しさ」もない。 好みも変わるかもしれないし、ずっと同じでもいい。 

パズルのピースは出てくるけれど、はてどのくらいの大きさのパズルなんだか。
気がつくと分からないことだらけで。
気が付いてるのに、分からないことだらけ。 気が付けば気が付くほど、「分からない」ということに気が付く。

「分からない」
分けられない。
あぁ、なるほどね。

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