見出し画像

ゆるりと概念きりかえされていき

先日のなんか"空気感変わったなあー"からまぁ色々ありますが、エネルギー的に緩めになる時もありますがこのまま行くのだろうなーという気もしており。例えば満月新月のように、その数日だけその時のエネルギー影響がきてるわ~ではなく、ぜんたいのエネルギーが切り替わったようなそんな感じです。
だからしゅうそくしてまた元のあんな感じにーとかではなくて、次の切り替えなり何なりに向けて少しずつ慣らされていく感じなのかなと。

ここ数日よく感じるのが、横への振りも大きいけど、縦も感じやすくなってるなぁと。
縦横と現すのもナンですが、ウエからのエネルギーも感じやすくなってると言うか取り込みやすくなってると言うか。例えていうならば、すぅーっと細く水が垂らされていたのが、滝のようにジャバーっと降り注いでいるような。何なら身体の枠からはみ出しちゃってるくらい(笑)。

これいいなーと感じるのは、自分のほうへ意識を向けた時とても繋がりやすいので、ちょっと座って目を閉じて呼吸整えるだけでも、前よりスーっと落ち着きやすくなっているのではないのかしらと。それこそトイレに座ってる時だけとかでも。

日常のあい間あい間で、ちょっとだけ深呼吸して静かにしてみるとか、わずかな時間目をつむってみるとか、そんなのでも結構瞬間リラックス出来そうな感じです。

瞑想でも座って静かに目を閉じるでも何でもいいのですが、単に自分をおとなしくするという時間を取ると、何か勝手に調整してくれてるなーという感じです。本質とも繋がりやすい。



まぁやはりぜんたいの軽さに肉体物質を慣らしていくというか調整していくと言うか、そんな感じを受けるのですが、軽くなって来てるから己のちょっと重い部分とかが見えやすくなってる訳で。で、重いと感じるならば、やはり今の自分とは合ってないのではなかろーかと。

これから個々の大きな移り変わりの1つに視点(捉え方)の変化というものがあると感じるのですが、「こうである」というものがどんどん崩れて行くと思うのですね。

分かりやすいのが、ここ2年くらいの世界的なお篭り推奨などで「会社はそこの場所へ行かなければ仕事が出来ない」とそれまで疑いもしなかったものが、実際はリモートなり、ネット環境が整えばどこでも支障なく出来ちゃう(職種によりますが)と分かり、そして実際経験したことにより、朝満員電車の苦痛がない事による自分の気分的な楽さとか、街中に人が少ないことで自分がどれだけノイズの中で生活してるかを体感したり。
そういった物事が言葉として分かってなかったとしても、何となくの身体の感覚が2年前とは変わってきてると思うのです。

それがある種強制的にみんなが同時にやることで罪悪感というものをくっ付けずに「国中がそうなのだから仕方ないよね」「国からお達し出てるから仕方ないよね」とやることが出来ました。自分だけがそうなのではないのだから(皆から外れてないから)大丈夫というちょっとネジれた安心感なようなもの。

個々の移り変わりのペースは人それぞれ違いますから、その捉え方の変化が訪れた時「皆と同じだから大丈夫」といういつの間にか染み込んでいるちょっとネジれた安心感のようなものが、見えないモヤモヤとして漂うかもしれません。


「こうでしかない」が徐々に少しずつ崩れて行くと感じますが、それは大きな事ではなくて、日常の日々の中の小さな事でも現れていると思うのです。
ただそれを「いつもと同じ繰り返されている日常」と捉えて生活してるからなだけで。
もうその(いつもの日常)という捉え方自体が「こうでしかない」となってしまっているのでなかなか気付きにくかったりしますが、その辺りが人それぞれの方法で崩されて行くのかなぁと感じます。

振り子のようなもので、「あ、そうだよなー」とその時は感じてまた忘れて。また何かあって「あ、そうだったよね」と感じてまた忘れて、を何度も繰り返して、少しずつその振られ幅が狭くなり「そうなんだ」と真ん中あたりで落ち着く。

そこから「そうなのかもしれない」が導かれて、また振り子が振られて経験し体感し。
それらは「当たり前」と思って生きている日々の中に沢山散りばめられていて、色んな角度からアプローチしてきてくれるのだと感じます。



目の前の出来事を、ひとつひとつ丁寧にやる。それに集中してやる。そんなことで、今まで見えてなかったスガタが、同じことをしているのに感じられるようになるのかもしれません。

あー、これもいつの間にか身に付けていたものだったかーとポロポロ剥がれていき、それには社会的共通な概念も含まれるので、自分では全く違和感なく当たり前としてきたものにヒビが入るようになると、連鎖的に次々と現れてくるかもしれません。それこそ目から鱗のように。



目から鱗がポロリとなると、視野が拡がります。今まで見えてなかった可能性が見えてきたりします。「そうなのかもしれない」と今まで(過去)を疑える眼が養われてきます。

過去を疑えるというのは、それまでの観念を疑えるようになると言うことにも繋がります。「自分は間違っていた」と責めるものではなく、『新しい眼』が開かれていくようなやわらかなものです。

「過去は変えられない」「過去は変わらない」のではなくて、『過去は "いま" ではない』というものです。

そこから風が吹き抜けます。

なにが「過去」なのか。
なにが「いま」なのか。
どれが「過去」で どれが「いま」なのか。

普段どれだけ「過去」と共にあるか、驚くかもしれません。
そして過去は文字通り、過ぎ去ったものです。



そんなこんなで今のこのパワフルなエネルギーは、人々が肉体レベルでも精神レベルでもバージョンUPするためのものなんだろうなーとか感じつつ、こういったものに少しずつ慣れてほどけて行った先には明るさしか見えないな~とか感じ。

知りたがりやの思考サンは「どーして?」「どうすれば?」とワチャワチャするけれど、ぜんたいがそうなんだから分からんもんは分からーんと、もう知らなくていーじゃんとお菓子でも頬張って。



何だかよく分からない中にいると、どーしても身体も強ばるしいつの間にか疲れてたりするし。

だから自分を休める事をダイジにしつつ、その時その時目の前に現れてくれた小さな事を、楽しみ味わいながら「瞬間」を紡いで「日々」となって。

「日々」が「いつか」になって
その いつか の その時の「瞬間」が
いま目の前の「瞬間」となり

ここ に
いつもいます


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。