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コメント(話し合い)不要論 ~ミュンヒハウンゼンのトリレンマより~

最近、ミュンヒハウンゼンのトリレンマという概念を知りました。その考えを理解したとき、コメントや話し合いなぞは不要であると思い至りました。今まででコメントにたいして持っていた違和感がとけたきがします。






ミュンヒハウンゼンのトリレンマとは

まずトリレンマとは、三択のどれかで葛藤させられることです。二択のジレンマの三択バージョンですね。

で、肝心の前半部の方は、物事を証明や立証するには、根拠がいる。しかし、根拠にも根拠が必要となり、それが延々と無限に続いてしまう。だから、知識の正確性を競うことばかりに執着すると、以下の3つのトリレンマ状況に陥るという話です。

・無限遡及
・無限循環
・断定的で独断的な前提の採用

↑ 一番イメージにぴったりだった語句 引用元サイト:日本式論http://nihonshiki.sakura.ne.jp/philosophy/M%C3%BCnchhausen.html


根拠の根拠がピンとこない方向けに例を挙げると、丸々先生が話していた、健康には丸々がいいは真だ。根拠はこの論文だ。論文の根拠は、この実験データだ。この実験データの根拠は、対照実験と再現実験だ。しかし、この前提の設定理由の根拠はなんだ。このデータの集計方法の根拠はなんだ。みたいな感じでしょうか。どんどん本当に正しいの?と掘りさげられます。

次いで、循環する場合もあります。この根拠は丸々だを繰り返していく過程で、どこかでそれが一周している場合があるということです。上の例で言うならば、この実験データが、根拠だ。なぜこの前提で実験をしたかというと、ある論文が根拠だ。この論文も、実は一番最初に挙げた実験と、同様の実験をしているからだ。なんでこの実験を以下繰り返しみたいな感じでしょうか。もっとシンプルに言えば同義反復。かわいいから、かわいいのだ!になってしまっている場合があるということです。

最後は、そうした知識の根拠は終わりがないものだから、終わらせるために、無理矢理前提をおく場合です。例えば、小学生の理科や算数などで、但し、丸々は考えないものとして計算するみたいな文章がわかりやすいと思います。無限遡及や循環になるのを避けるために、結局は意図せず我々はここを使いこなしている訳です。

少し話は変わりますが、人間の学問はざっくりいって、人文科学、社会科学、自然科学に分類できます。自然科学の場合は、数学や物理やら、極客観的に、法則や定理や公理を導くことができるのでこのトリレンマ問題を回避できます。絶対の正解があるといってもいいでしょう。一方、問題になるのは、人文科学(直感や心理や資料解釈)と社会科学(統計的処理多め)の領域です。主観的な要素が入り込んでくる部分ということです。この領域ではトリレンマ問題に直面します。

反出生主義に近い話かもしれません。絶対の100である真っ白を追い求めると、出生は100ではない。だから、99点でも、反(悪)であるとなるように。絶対の正解である100を目指し過ぎると、主観が混ざってしまう領域では、トリレンマに陥り、99点の答えがあっても、それを選べずに、右往左往してしまうという話です。






コメント不要論

コメントの種類や分類

Yahoo記事でも、YouTubeでも、こういうnoteでもいいのですが、記事に対して思ったことを発信するコメントは、大概三種類に分類できます。というか、ほぼ三パターンです。

1、賛同共感の同意タイプ
2、正誤の訂正や補足タイプ
3、内容への批判的指摘
(4 投稿人に、質問や補足説明を求める)

1は、よくある私もそう思います!わかるーそれな!的な内容自体はほぼない賛同です。お返しいいねとかスキだけつけるやつです。応援してますとかもありますね。

2は、Yahoo記事のトップの専門家?的な人のコメントがわかりやすいと思います。要は解説補足ですね。あとは、YouTube等のコメントでフェイクニュースであるとか、数字を提示して誤りを示すパターン等です。

3は、記事に対しての指摘や批判的見解を述べるようなケースです。私は記事のようには思わない。何故ならみたいなやつです。コメント返しで、意見交換のような意見の応酬があるものの、最後はしりすぼみでよくわからないままに白黒つかずに終わるあれです。皆さんも経験したことあるのではないでしょうか。

おまけは質問でしょうか。記事の説明不足か読解不足か、自分でそれくらい調べろよとやらパターンはありますが、本質的には、思ったことを発信するコメントに分類するものではなく、記事に関わる人らの力不足の領域の話です。なので()扱いです。




コメント不要論

さて、で、上のいずれのバターンのコメントも本質的には不要です。正確にいうとAIやらのシステムで代替できるので、意見交換の場とか、足しになるものとして無理して残す必要がないということです。

1は、そもそも情緒的にほっこりするだけで対して足しになっていません。イイネやスキでこと足りる話です。そんな文章作成の時間はもっと有意義に使う方が好ましいと思います。

2は、AI添削の技術向上でこれもこと足りる話です。こういうトピックや固有名詞や周辺概念が理解できていないと、スムーズに記事を読めないだろうというのは、本文の構造を追えば、システム的に抽出できるはずです。もはや、人力解説は不要になっていきます。同様に、数字に誤りがあるとか。数字に対して解釈した箇所に誇張表現が多いとなれば、その単体のデータの誤り。本文の恣意的な引用の仕方も抽出できます。誤りまで指摘できなくとも本文に関わるデータを補足して表示することもできます。

で、ここからが本題です。1と2の観点はAIを聞き齧った人ならば誰しもすぐに思い付く仮説だと思います。私が切に言いたいのは3であり。意見交換と呼ばれる領域、スペースとしてのコメントでの指摘合戦さえも、本質的には不要だと気づきました。

最初に話したミュンヒハウンゼンのトリレンマの話に戻ります。






コメント(話し合い)における意見交換はなぜ不要なのか

ミュンヒハウンゼンのトリレンマが導くのは、知識の正確性を競うことばかりに着目すると、主観的な要素が多い場面では、トリレンマに陥るという第一結論です。

さらに、それを掘り下げて導けるのは、主観的な要素が多い場面では、絶対の正解を導くことはできず、誰しもの正解があるということです。その根拠の根拠を論破しようとしても、無限遡及が反転して、無限証明となり、絶対的に論破というか説得が成立しないという第二結論が導けます。

わかりやすく例えると、トランプタワーのようなイメージです。一番上の結論を構築するために、土台には多くのトランプが使われていて、中間結論を組み込みつつ、大きな三角形の形になっています。

相手のトランプタワーを見た時に、その一部に間違っているとか、おかしいと思う点があるかもしれません。それを指摘論破すれば、トランプタワーなのですから、一部が崩壊し、そして全部崩壊してもおかしくないと思って指摘するわけです。しかし、実際はそうなりません。

・無限遡及の話にあるように、壊したと思う土台の下から、もっと強い土台があるから其処は崩れていませんと無限に根拠(主張)がどんどん追加されたり。
・トランプタワーと異なり、1つの柱が崩れても、他の柱で支えられているから結論部は変わりない。結論は正しいと揺るがなかったり。(一つの柱が壊れたのなら、結論に多少の変化はあるはずにもかかわらず。)

つまるところ、何がいいたいかと言うと、結局は、時間やスペースや言語化力や論理力の問題で、外から見た場合、双方のトランプタワーの全貌を掴むことができません。なので、上で上げた2つの無限地獄に引きずり込まれるだけというわけです。

大人と子供ぐらいの力量差があれば、全貌を掴むことができ、指摘して相手の想定している一番底の根拠をゆさぶることはできるかもしれませんが、現実の大人と大人の場合は、そこまでの力量差にはならないでしょう。

以上より、人は自分の信じるもだけを信じ、どんなに論理的な指摘でも、無限に反論と反対をしようと思えば無意識に繰り返せてしまうという構図になります。つまり、相手が100点を求めようと躍起になれば、コメントも話し合いも不要で無駄です。無間地獄に陥るということです。






おわりに

昔にこんな記事を書いていて、話し合いは、もっとうまくできるんじゃないかと夢見ていたようです。コスパが悪い!とか、バカと関わるな!とか、なんかそういうコメント不要論を多く聞いていたせいもあるかもしれません。わかりあうことにコスパも何もないだろ!! バカ云々も、相対的で自分が教わる側になるかもしれないんだから、教える側でも教わる側でも真摯にふるまうべきだろ!! とそんな夢をみていたというか。

しかし本記事の通り、世の中には話し合いのようでいて、全然話し合いになっていないケース、無限地獄に陥っているばかりのことが多いと思います。

・同じ方向を向いている似通った人と話す。
・教わる気持ち、相手を理解することで、自分の理解の幅を広げるために話す(というか聞くや確認するに近い)
・6W3Hの条件を明確にして、妥協や調整という名の決めるために話す

世の中にはこの3種類しか、コメントや話し合いは必要なく、それ以外は、不毛なのかなと思いました。

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