ヴィーガンについての批判的指摘 ~ダーウィン事変を読んで~

誤解のないよう、先に書いておくがヴィーガンであることを否定や批判するものではない。ヴィーガンだよ♪も、最近聞いた中で心惹かれたのはヨアソビのアイドルだよ♪と同列でしかない。あぁそれが好きなんだ。そういうのを大事にしている人なんだという1つの価値や物の見方の話であって、それを否定したり批判する気はない。

アイドルこそ至上!他の曲なんかなんできくの!?な態度で人に迷惑をかけなければ、各自の自由と幸福と信仰(自分が信じる正義)を追求すればいい。強制する、さも正しいもの良いもののように布教する、望まれていもいないのにその話を無理やり捻じ込む。この辺は違うよねというスタンスである。


さて、なんでこんな話を書こうと思ったかと言えば、2022この漫画が凄い10位の作品を読んだからだ。ダーウィン事変。漫画的には思想は中立だし、エンタメに仕上がっているし、面白くて読むべき作品なんだけれども、いかんせん、ピュアな人が読んだら、極端なヴィーガン思想にどっぷりはまりそうなので、(自分も一瞬価値観が揺らぎかけたので)、色々と整理しておこうと思う。

失礼かもしれないが、価値観の洗脳とか刷り込みって、やろうと思えばこんな簡単にできるんだよというお手本でもあるので、漫画とか映画によるプロパガンダってこんなに機能して、危険そうだなとも痛感させられる。





そもそも論 正義論・正しさ論

ヴィーガンとか主義思想を言い出し語りだす上でのそもそも論は、正義論や正しさ論から始まる。現代哲学の主要なテーマはここだ。どちらを選ぶ方が選び方が正しいのか。どちらの方が善良?正義なのかである。A>Bならば、Aが採用される。いかに、自分の方が正しいのかを主張するかなわけだ。しかし、正しさや正義とは万物不変のものではない。人それぞれ正義があって、争い合うのは仕方ないのかもしれない。

各自の正義論を構成するものはなにかといえば、以下の通りだ。
・主語の範囲、大枠
・目指すゴール、目標
・そこへの道のり、手段


小難しく考えなくていい。私が、このBBQを通じて、こういうことをして、最高に楽しく過ごしたい! という見方視点もあれば、参加する町内全員の人が、このBBQを通じて、こういうことをして、皆が仲良くなれるようにしたい!という見方視点もある。あるいは、人類や地球も含めた私が、このBBQを通じて、こういうことをして、地球と人間の調和を示したい! という視点見方もある。

主語大枠の範囲がどこまでで、その主語にどういう価値や目標が課され、そして、それを達成する手段を何に定めるか。それにより、各自が一番私の見方視点が正しいと叫んでいるだけだ。どこかで被るところがあれば(もっと良い目標があるよ。もっと良い手段があるよという風に)、そこで議論や意見交換が行われるかもしれないが、基本的には分かり合いにくいものだ。ちなみに、手段だけが共通の場合が、敵の敵は味方現象である。





ヴィーガン思想の根幹

ヴィーガン思想は、
主語:人間も動物もすべての命は対等で平等で同じ1つの命だ。という主語や大枠をとる。
目標:動物の自由と権利を拡大する(生き過ぎた人間の振る舞いを抑制し傲慢だと批判する)。
手段:ヴィーガン食を選び動物の殺生を避けようとする。これらの思想を布教拡大することで人間の動物や環境への接し方を改めようとする

基本原理はこんな感じだろう。亜種として、目標や手段を緩めてより一般的な人々に馴染みやすくしたパターンもあると思う。とりあえずその辺はおいおいふれるとして、批判的指摘をいくつか書いておこう。





そもそもすべての動物は対等で平等ではない

動物は生存競争の結果、食物連鎖のピラミッドを構成している。相手を食べ、食べられ、分解されという循環の中にいる。すべての動物にとって食べることは生き残るために必要な事だ。そうして食べる側と食べられる側という力関係の連鎖が連綿と繋がっているのだ。

さて、食べる側食べられる側という差がある以上、対等で平等になれるはずがない。もし、対等で平等になるには、食べるという力学を排除する必要がある。つまり、全ての食べる側が我慢したり、他の手段で食欲を満たすことができれば、食べる食べられるという力関係はなくなるので、対等で平等になるかもしれない。(お金を両方が十分持っていれば、おごるおごられる論争がかなり意味をなさないのと一緒だ。どっちでもいいじゃんとなり問題にならなくなる。)

空気や水や土から科学的に食物を合成し、皆に配ることができて食欲から解放されれば対等平等は達成できるかもしれない。しかし、人間も動物も対等であるとするならば、人間だけが我慢することは歪だろう。片方だけが我慢する関係は対等で平等なのだろうか。それは動物の優遇であり人間の冷遇差別だ。

つまり、上で述べた通りすべての人間含めた動物が、その合成食料を自ら選んで食べて、殺生をしなくなるようにならなければ、全ての人間も動物も対等で平等は達成できないのである。そこで生じる食物連鎖の変化や、すべての動物がそれを受け入れるかどうか等、途方もないファンタジーだ。

もっと極端に考えれば分かりやすいかもしれない。人間と動物が対等で平等だとするならば、すべての動物に市民権や選挙権が認められる世界になる。議会の決定は数や何やらで押しきられて、アリの意見が採用されるのだろう。人間以外の動物の決定が採用されることになるのだろう。環境破壊的な政策はすべて破棄され人間は原始の生活に戻らざるを得なくなる。そして、仮に戻ったとしても火を使うことさえ禁じられるかもしれない。

環境破壊を推奨するきはないし、人間至上主義を掲げるつもりはないが、ウィーガンの行き着く先は自然至上主義である。人間であるということは、理性や知性を持ち合わせているからこそ人間なのであり、それらを捨てようとする自然至上主義は、人間をやめようとしていることと同義だ。必要なのは自己破滅ではなく、人間が持ちうる知性による問題解決こそ、人間らしいものだと思う。ゴリラの腕力が他の動物にとって?ひいては環境に駄目だから、腕力を封じるねと一緒だ。人間らしさ、ゴリラらしさ、という自由の欠片もないものになってしまう。





命の尊重論、泣き落し同情論、少しでもいい方向に変えたい論

上で述べた根本的矛盾を回避するために、次のような主張が生まれる。対等で平等という理念は理念であり一旦おいておき、現実的な問題に焦点を合わせようとする。要は現状で動物が冷遇差別迫害されているのだから、動物の権利を認め拡大させよう。目の前の動物の地位を向上させようよ!と訴えるのだ。大きく分けると三種類の論理展開を行う気がする。各自にも指摘を述べる。



1、命は大事、尊重されるべきだ論

動物の命も人間と同じ命だ。同じ命にかわりはないのだから、命を尊重しよう。ひいては、人間が我慢したり選択でその命の尊重ができるのだから、なぜ動物に歩み寄れないのか云々と主張して、動物の権利拡大を図ろうとする。この主張に対しては、何故、動物に生存権だけを認めるのかという指摘と、命を尊重という大義名分で覆い隠して誤魔化そうとしている指摘の二つが挙げられる。

前者は、なぜ命だけ尊重という権利拡大を述べるのか疑問だ。本当に対等であるのならば人間と同等の市民権や選挙権まで与える必要がある。生存権だけ認めるというのは、裏を返せば、二級市民や三級市民のように人間や動物を階層分けして、何かしらの理由で劣っているからお前は生存権だけしか認めないということとなにが違うのだろうか。旧来の奴隷制度や封建制度となにが違うのだろうか。人間が格上や優れていて動物はここが劣っているから駄目という何かしらの烙印を押すことに他ならない。それこそ理念とは一貫しない動物への差別的な態度となってしまう。

後者は、好きの搾取やモラハラやパワハラと同じ構造であるという指摘だ。命は大事なんだから、人間側が我慢して調整しろというのは、俺のこと好きなんだよね?だったら、中に出させてよと一緒だ。あるいは、会社で何かの理由で偉いとされている人がプライベートや仕事に関連しないことでも指導や命令をするのとも一緒だ。命は大事なんだから、これぐらいは我慢したり要求を聞くべきだよね!?という押し付け我慢の強要だ。たしかに命は大事で尊重されるものだが、無条件にすべての領域で尊重されるべきものではない。命の意味や役割や条件はもっと複雑怪奇で状況にも依存するものだ。各自の捉え方やイメージやそこに与えられた差が生じるものだ。それらを誤魔化し無視して、命は大事!に賛同しないとは、道徳的ではない!なんで我慢できないのだ!という批判で押しきろうとしているだけなのだ。繰り返すが、好きだから”全て”を受け入れるべきいわれはないし、命が大事だから”何よりも”優先されるべきいわれもない。




2、泣き落し同情論

1に近い部分もあるが、もっと感情的に人間を批判して動物の権利拡大を図ろうとする主張もある。例えば、何気ない食卓に見えるかもしれないが無数の動物の血で溢れている!とか。切り刻まれる動物の苦痛の声が聞こえないのか!とか。ただ食べられるだけに生かされた動物の一生を可哀想だと思わないのか!等々だろう。論理的理性的主張よりも、こういう感情的な感情をゆさぶる主張の方が動揺させやすいと思う。

これに対しては、感情は主観でしか決められないという指摘と、感情を有しない神経系(痛覚)を有しない生物と動物を差別して扱うのは、どうなのか?という2つの指摘がある。

前者は、動物を痛いや可哀想だ!と思うのは、人間の主観で傲慢でしかないという話だ。それはスポーツの為に過酷な訓練をしている人を見て、あんなに苦しんでいるのだから辞めさせよう!と勝手に決めるのと何が違うのだろうか。相手からすれば、生きている(スポーツ)をしているのだから、苦しそうな状況もあるかもしれないが、それはそういうものなんじゃないの?という本人の認識では問題ないかもしれない。そこに勝手に他者が介入するべきなのか。また痛みとは脳が感じるものである。動物の痛みを人間が分かった気になって、勝手な判断を下す方が傲慢だとおもう。痛いだろうことは想像できるかもしれないが、痛いだろうと決めつけるよりも、痛いだろうけどわからないことは、今はわからないままであるとして判断対処する方が、余程健全で誤りがないように思う。

後者は、痛い!むごい!可哀想!と主張するが、それらの神経系が存在しない生き物(植物や虫)等と、それを有すると思われる動物とを差別してよいのかという指摘である。痛みがあるかないか。血が流れるかどうかで命を選別していいのだろうか?そこに命の取捨選択をしているという根本的矛盾をはらんでいる。動物とヴィーガンが認定するかどうかで命の価値が変わってしまうのか??それはおかしいだろう。命は誰の主観関係なく、命は命として存在する。もし仮に痛みを問題として提起しつづけ、その理屈を推し進めれば、その返答として、麻酔をしていたくないように配慮すれば問題ないことになり。または、血が流れない凍結状態で処理すればいいことになってしまう。人間と動物は対等の理念からかけ離れ、感情任せの理論ゆえに、よくわからない解決に陥ってしまう。




3、少しでもいい方向に変えたい論

人間はそれ以外のものでも食べられるのだから、それを選ばなければいいだけの我慢の話だ。動物への迫害や残酷さを”少しでも”減らしたい。”少しでも”いい方向に変えたい。環境問題等の話と一緒だよ、少しでも努力していくべきだ。少しでも努力して結果が良くなるのはいいことだろう?と主張する。

1と2にも近いが、手段の話を曲解歪曲して、これまで述べた矛盾を全て無視して結果に近づくためのごり押し論である。これは要は、なんでもいいからもうすこしまけてくれよ!!と同じ構造だ。もうすこしまけたって、あんたの腹は傷まないんだから、少しぐらいいいだろ!?とおこぼれを貰おうとしているのと何が違うのだろうか。

結果で見れば、その主張が通ることはあるかもしれない。相手に余裕がありなにかしらの範囲に収まっているのならば、相手がOKサインをくれるかもしれない。しかし、そこになにかしらの哲学的?論理的?感情的?ないかなる解決が図られたのだろうか。単に、相手(人間)に”まぁそれでいいよ”という一言を引き出したに過ぎない。時と場合と状況によって、そこで少しの譲歩は勝ち取れるのかもしれないが、本質的解決になっていない以上、そんなうつろいやすいものにどれだけの価値があるのだろうか。瞬間的な勝利にどれだけの価値があるのだろうか。自分の望む結果の為に、無理な力学でごり押ししてそれを通そうとしているだけに過ぎない。






直接的破壊と間接的破壊

ヴィーガンを論破!!とかいう人がよくこの辺の話を持ち出す気がする。つまり、ヴィーガンが動物を食べないという選択(直接的破壊をしない)をしたとしても、人間以外の様々な動物同士が食べ合っているのだから、それに比べれば微々たるもんだとか問題の矮小化を図ったり。あるいは、人間はこの文明生活水準を維持するために、大量の二酸化炭素を排出したり、森林を伐採したり。開墾したりという間接的破壊(間接的動物の居住環境の破壊)を行っている。だから、ヴィーガンの活動は微々たるもので(問題の矮小化を図って)誤りだみたいなことを理由に、ヴィーガンを批判する意見もある。

プロスポーツ選手になりたい人に向かって、そのトレーニング手段は効果的ではない!間違っている論破だ!と指摘したところで、そのトレーニングを変更しようと思うだけで、その人の在り様や思想背景は変わることはない。むしろ過激化するのは目に見えている。単なる相手の揚げ足とりなだけで、相手になんの効果や対話をもたらすこともなく不毛だと思うし、過激化して問題を大げさにするだけのアプローチで不毛だと思う。





人間と動物の在り様

批判だけで終わるのもあれなので、私の人間と動物の見方視点も書いておこうと思う。私は人間と動物の在り様は会社組織のように思う。今目の前のことを処理する1社員(動物)と、それらの階層のトップにいる社長(人間)は、職責も仕事内容も全く異なるのだ。全てが対等で平等ではない。違う生き物なのだから色々違って当然なのである。みんな同じでみんな良い!ではなく、みんな違ってみんな良い!が真の平等と自由だと思う。

社長たるヒエラルキーのトップにいる人間、その本来の職責や責務は、その構造体をいかに維持し、緊急事態にも対処し、未来や将来に備えて、常に研鑽し準備しておくことであると思う。いざとなれば、ノアの箱舟を作っておくことが期待され必要とされているのが、人間なのだ。それがトップの役割である。

偉ぶったり傲慢になったり社員から搾取するのではない。社員は社員として尊重するべき部分も当然ある。しかし、社長と社員の利益やメリットは異なる。それを上手く配分配慮しつつ最大限の成果を発揮する事が、トップの務めだと思う。

具体的に言えば、全ての生命の母である地球と太陽の年間のエネルギー資源生産量を考慮して、単年や通年単位で収支を合わせる。そこで得られる何%かを、将来への備蓄や将来への投資に充てる。これだけだ。子供(動物)がもっとお小遣い欲しい!と言っても、今年の収入やあれこれを理由に、それは無理なお願いだよと突っぱね、そして自らもその課したルールに従い、父母の私だってこんな風に節制しているのよ~。と説明する。ただそれだけだ。

子供(動物)にはわからなかったとしても、管理運営、説明責任は父母にある。現在わからなくても説明できるようにしておかないといけないし。未来のわかるようになった時に向けて、一貫的で合理的なその説明と記録を残しておかなければいけないと思う。それが将来的に誤った判断だと揶揄されようとも、その時のその時点ではそれがベストな判断だったと理解されるように最大限の努力と覚悟と責務を果たし、未来永劫背負うことがトップの人間の責務で必要なことだと思う。

もっと簡潔に言えば、ノブレスオブリージュの精神ともいえるかもしれない。偉ぶるでもない、施すともちがう、上に立つからには上に立つものの責務と役割があるというそれだけの話だと思う。





おわりに

ダーゥイン事変の登場人物に、『人類を今よりももっと早く先に進めたい』という人物がいた。悪役?画策?側の人間で、ちょっと嫌なキャラと同じ立ち位置なので少し嫌な気持ちになったが、共感してしまうのは事実だ。

ヴィーガンとかフェミニストとか、そのての結果の平等や、自分の信念だけを満足させるためだけの行動で右往左往している場合ではなく、もっと次の段階に人間のエネルギーを集中し、次に進めないかと常々思ってしまう。

別の記事で書いたが、私は知的生命体として現トップにある人間は、現トップでしかなく。地球の急激な環境変化が再び訪れて人類が滅亡すれば、また次の知的生命体が誕生するだろうと思っている。どれだけ年月がかかるかはしれないけれども。であるから、現トップ、現社長として、人間としてその功績が称えられるのは、人間だからこそできた成果や結果をあげてこそだと思う。思想対立や利益対立を、グループ企業をどう統括するかみたいな、誰がやっても同じ力と圧による自然解決を図るような低レベルな解決を卒業したい。他の知的生命体よりも、人間の知性だからこそ到達できるできた世界を体現したいと思う。びっくりするぐらい長くなりました……。お疲れさまでした。


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