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消費される時間、娯楽、心

気づいたら絵をあてもなくずーっと描いてた頃は楽しかった。
今は時間に追われて、ゴールが見つかってもまた次また次!常に何かの期限に向かって走るばかりのフルマラソン。
ぽっかり空いた時間はけして自分の自由なのではなくて、結局次にしなくてはならないものがあると思うと、心はすでに今ではなく将来の不安に引っ張られていく。

だから時間があっても、この時間を有効にしなくてはと考えるあまり、何を選んだらいいか分からなくなって結局何もしないということもある。
いつだったか、ある程度不自由さが無いと自由になれないという「自由」の一側面を授業か雑談かとにかく誰かが話してたことを思い出す。私もそれについてレポートを書こうと思っていたっけ。今回とは逸れるので、また別で書こうと思う。

そして時間に追われ、やることが分かっているのに、何か漠然とした刺激を求めてスマホをスクロールし続ける。いい加減これをやめるべきだなと思う。
そもそも求める新鮮で面白くて楽しいのって、そんな受け身で簡単に得られるものではないからだ。
インスタントな消費ばかりしていて、瞬間瞬間は楽しいが、結局何をしたのかというと自分はただ座ってスマホを覗いているだけだ。

年々、私含む人々の刺激に対する求める強さが上がってきている気がする。それはつまり刺激に対して鈍化しているともいえる。
物事を表す表現で「すごく~だ」「ヤバい~だ」というもののほかに、数年前から「死ぬほど~だ」という語がなじみつつある。「死ぬほど」とは生涯をささげてしまうほどのという莫大なスケールであり、生死が関与するという時点においても過剰なまでの表現と言える。
実際「死ぬほど笑った」「授業死ぬほど眠すぎるんだが」といった具合にあまり深刻な状況に使われることはなく、だからこそユーモアを感じることができるワードである。
しかしこのような過剰なワードを使うのかというと、「すごい」「ヤバい」のワードが持つ刺激をさらに超えているからであり、そういった程度を表す語や形容詞が増えるほどに我々に取り巻く刺激というものは増えている。
今ある刺激に慣れると、やがてそれは日常として溶ける。なので刺激であふれているはずなのに、どんどんより強いものを求めて刺激そのもののハードルが上がり続けていってしまう。その果てに過剰な刺激を求めるあまりモラルに欠いた行動をとってしまい他人へ危害を加えるといった結果につながりかねない。残念なことに昨今でもそういうケースは見受けられる。
この発展し続ける日々において、やみくもに消費するだけでなく自ずから楽しみを創作することが求められていくと思っている。

だから私もただでさえ時間に迫られる日々を送る中、消費の姿勢でい続けるのはもったいないよなと焦っている。だがそもそも心が今この瞬間にいないのに、楽しめるわけがないのである。

私は何に楽しみを見出すのかと考えると、古い絵葉書や切手をコレクションし集まったものを眺めること、本を没頭して読んで知識を持ってまた物事の新しい一面を見れること、映画を観てその中身を深く考えること。絵を描くこと、これらだ。
その時は時間なんて忘れて、何かを蓄積していきそれを発信することが私の楽しみだ。「時間を忘れるという没入感の中でどれだけ何かを成せたか」こそがきっと私の求めるものなんだと思う。
しかし大切なのはその中身の充実感なのではなく、今の瞬間にどれだけ集中できたかというところである。先の不安に駆られながら描く絵と、しっかり集中して描く絵では後者の方がきっと素晴らしい出来なのではないだろうか。中身の充実感だとかはいつも遅れてやってくるのだから、どんと構えていよう。

と、空いた時間を縫って書いたnoteである。作ろうと思えば時間は自分で生み出せる。そういう柔軟さと自分を見失わないだけの軸があればきっと魚みたいにどこまでも泳いでいけるんじゃないかってそう思ってる。


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