手鏡日録:2024年2月20日
長女が、先週から内田康夫の浅見光彦シリーズを読み始めている。
最初は『イーハトーブの幽霊』だった。書店で一緒に浅見光彦シリーズを探したところ、少なくとも20年前に比べて内田康夫作品の品揃えが少なくなっていることに驚いたが、光文社文庫で唯一残っていたこの内田作品を「読んでみたい」と言ったのだった。
続いて図書館で自ら『朝日殺人事件』を借りてきた。どうやら浅見の身元が警察にバレて、警察の対応が180℃変わる場面を読みたいらしい。以前長女に「浅見光彦シリーズの何が面白いのか」と訊かれ、浅見の素性によって高圧的な警察の態度が豹変するところだよ、と答えたのを覚えていたらしい。
残念ながら『朝日殺人事件』ではそのシーンがなかったので文句を言われたが、長女が徐々にアガサ・クリスティーから国産ミステリに触手を伸ばしてくれている。
思い返せばちょうど私も長女と同じ年代で、浅見光彦シリーズを読み始めたのだった。最初は『佐渡伝説殺人事件』だったと記憶している。その後は同シリーズを読み漁り、小学校6年生の読書感想文は『三州吉良殺人事件』で書いた。ミステリに飢える年代というのがあるのかもしれない。
長男のほうは伝記シリーズを読んでおり、こちらも私にも経験のあることだ。子どもが自分と似通った読書遍歴を辿っていることに、何とも言えないうれしさを感じる。
うれしさを感じる、と言えば、もう亡くなって20年ほどになる祖父が、日記に最後に綴った判読可能な文字も、うれしい、ということばだった。
当時、一浪していた弟が第一志望の大学に合格した頃だった。認知症で覚えていられなくなり、字も文も乱れてほとんど日記の体をなしていなかったが、「〇〇(弟の名)が〇〇(大学名)に受かったらしい。うれしい」と、祖父は帳面に書き残していたのだった。罫線を斜めにはみ出し、かろうじて読み取れる文字で、何をうれしいと感じたのかを忘れないように。
亡くなった後にその日記の記述を発見したとき、いろいろあって祖父には冷淡だった祖母は「どうせ忘れちゃうと思ってほんの一言伝えただけだったのにね……」と、何とも言えない表情だった。その隣で、私もきっと同じような顔をしていたのだと思う。
別に祖父に限らず、家族に向ける感情に決まった鋳型はなくて、歪になったりかたちを成さないこともあるように思う。でも時々は、すっきり素直な「うれしい」がするりと出てくることだって、たしかにあるのだ。
因果なことに、私もいま祖父と同じような「うれしい」を感じているような気がしている。
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