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手鏡日録:2024年5月22日

いつぶりか分からないくらい久しぶりに、とある牛丼屋に入った。少し前におエラい役員が自社の商品と女性と地方をワンフレーズで貶めるミラクルコンボをキメた、あの牛丼屋チェーンである。かの舌禍よりずっと以前から足は遠のいていて、でも時々食べたくなるのは、自宅ではなかなかあの牛丼の味が出せないせいもあると思う。あるいは思い出補正というやつか。
入った店はずいぶん綺麗で明るい内装で、お馴染みのカウンターのほかにテーブル席が多めに配されていた。客層は広かったが、自席からタブレットでオーダーするスタイルは高齢の客には難儀な様子で、直接店員に注文している。
ちょうど背後に座った客も、そんな一人だった。痩身の年配男性で、若い店員を呼んで注文している。
「唐揚げひとつ」
「唐揚げ一個でよろしいですか?」
「え?唐揚げひとつね」
「はい。唐揚げ一個ですね」
このやり取りが耳に入り、不安が募る。
年配男性は、メニュー表を確認できていない。この店にはタブレット以外のメニュー表はなく、したがってこの客は一個から唐揚げ単品を注文できることを知らないのだ。若い店員は少し疑問に思いながら、唐揚げ一個のオーダーを通してしまう。
細身のお客さんだから唐揚一つだけで足りるのかな。それとも懐事情によるものだろうか。いやいろいろと店員に訊ねてたんだからそれはないだろう。覚束ない口ぶりながら、あれは食事を何にしようか楽しみにしている人のそれだった、と思う。果たして唐揚一個は正解なのだろうか。気にかかって仕方ない。
程なく、注文の品が客のもとへ運ばれる。手のひらサイズの小鉢にひとつだけおさまった鶏の唐揚。息を呑む年配客。やっぱり。
どうなることかと思っていたが、もごもごといくらかやり取りがあって、客もちゃんと店員に主張していることがわかった。「こっちもごめんなさいね」という客の声が聞こえ、店員は小鉢を下げていった。ややあって、再びあらわれた店員の手には、唐揚定食と思しきトレイが。今度はちゃんと望みどおりのものが運ばれてきたようだ。
背後で繰り広げられた一幕が無事解決したのを確信して、席を立つ。外へ出ると、吉野家の看板よりもずっと鮮やかな夕焼が、天穹を染め上げているところだった。

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