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サンドイッチはまだ遠く

東京には美味しいお店がたくさんある。なのに一部のお店に行列ができていて、数時間待たされることも全く辞さぬ、という顔の人たちが整列している。

私は田舎者だからスーパーのレジに並ぶことはあっても、イオン(ほんとは今もジャスコと呼んでる)の駐車場で車の列に巻き込まれることはあっても、お腹がすいている状態で飲食店に並ぶというのはなかなか慣れなかった。

(その数年後にスパイスカレーの沼にはまり、行列なんてなんのその~顔で人気店に並んでいたこともあったのだけど、長くなるのでまたの機会に。)

先日、人との約束があり都内の大人気なカフェでランチをすることになった。平日の、しかもお昼を少しずらした時間に行ったにもかかわらず、案の定、数人が並んでいた。

しばらくご無沙汰していた人との再会だったので、近況のシェアなどしているうちにどんどん時間は過ぎていったけれど、それでもなかなか呼ばれない。
仕方がないから小学校の時の先生の話という、なかなか普段はいきつかないであろう領域まで会話が及んだとき、ようやく呼ばれた。

席についてメニューを見るとお昼に提供されているのはサンドイッチ、クロックマダム(ムッシュだったかも)、ちょっと豪華なランチプレートだった。私も一緒にいた人もサンドイッチを選んだ。メニューの中では一番ライトな(lightの方ね)選択だった。

しばらくして、とてもシンプルな一皿が運ばれてきた。添えられているのは人参のラペだけ。サンドイッチのサイズもつつましい。ナイフは使わず手でつかみ、はむっと噛りついて固まった。

とんでもなく美味しい。

「とんでもなく美味しい」という表現をしたくないくらいに美味しかった。一緒に来た人との会話はそこそこに(並んでいる間に語り尽くしといてよかった)、この美味しい体験を舌と脳と胃と目に焼き付けるために全集中の時間だった。


その日から、究極のサンドイッチを再現するために研究の日々が始まった。一番ライトなメニューだとあなどっていたサンドイッチが、こんなにも美味しいとは。サンドイッチって、きちんと作るとこんなに絶品になるのか。

あの感動を(あわよくば並ばずに)もう一度。そんな思いを胸に、記憶の中のサンドイッチを分解した。
ハムとチーズが挟まっただけのベーシックなサンドイッチ。ハムはお店の自家製でしょっぱすぎない塩加減。厚切りではなくうすーくスライスされたものがたくさん挟まっていた。そしてモッツァレラのような、水分量多めのチーズが使われていた気がする。なんといってもバターが決め手なような気がしていて、パンに薄く塗っているのではなく(塗ってあったかもしれないが)、薄く切ったバターの塊がところどころにちりばめられていた。

頭の中に広げた完璧なサンドイッチまでのMAPを頼りに、近所のちょっといいお店で材料を買いそろえ、栗原はるみのレシピでハムを自作し、いざ出陣。

じゃーん

かなりいい感じのものができあがった。食べてみても、なかなか美味しい。あのお店と同じとまではいかないけれど、これはこれで合格といってもいいだろう。
私がこれまで作ってきた、具をもりもりと挟むサンドイッチよりも、はるかに潔くて、パンと具の美味しさがストレートに分かるサンドイッチ。具の多彩さで楽しさや満足度をあげる方法もあるけれど、具の切り方や質感を工夫するだけでも格段に変わるのね…!サンドイッチからの学びは大きかった。

あれからしばらく経った今。サンドイッチ研究の熱は沈静化しつつあるけれど、カメラロールを振り返ると、サンドイッチやハムの写真だらけの時期がある。

お花を一緒に撮るのは確信犯
謎の長い影


手塩にかけてつくったものをどうにかいい感じに撮りたくて試行錯誤していた跡がうかがえる。

飲食店に並ぶのをいやがるくせに、食べるまでにこれだけの手間をかける自分の精神構造は正直よく分からないけれど、空腹に耐えながら写真を撮っている時の私の顔は、たぶん人気店の行列に並ぶ人と同じような表情をしていた気がする。







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