2020年は「動」と「静」と「動」のサンドイッチ
わたしの2020年は「動」から始まった。それは1月から2月にかけて。
ライターとしての仕事をもっと増やすため、幅を広げるため、自分なりに戦略を練りつつ動き始めた時期だった。
何も起こらなければ、例年通り平穏な年であれば、そのまま突っ走るつもりでいた。2月、株式会社GIGへ社会人インターンとして参加することが決定。
これからどんな仕事をしようかとわくわくしていた矢先の、緊急事態宣言だった。
入社した途端にフルリモート体制へ移行。まず出鼻がくじかれたような心地がし、そんなつもりはないけれどおそらく、徐々に、少しずつ、仕事に対する意欲がしなだれていった。
5月、6月、7月、8月、9月……。春になり、夏が終わり、秋口にかけて。まさに「中だるみ」という言葉がぴったりくるような、腑抜け具合だった。
中学校でも、2年生はダラけるものだ。高校2年生や、大学2年生も同じく。
1年生のようなフレッシュさが薄れ、3年生のように受験に追い立てられることもない、1年という時間。つかの間を、実にダラけて過ごす「中だるみ」。「静」の時期。
31歳になった私の中だるみは、5月から9月にかけての、半年弱だった。たった半年弱だけれど、それでも、あの時期のわたしが何を考えていたのか、よく思い出せずにいる。
あんなに「頑張ろう」と思っていたのに。自分の可能性を試したくて、仕事の幅を広げたいと思って、あれをしよう、これもしようと考えていたのに。
閉じた。こもった。
偉い人たちがこぞって「不要不急の外出は控えて」と言っていた。ちょうど良いと思った。出るなと言われているのだから、とことん内にこもってやろう……。
ご時世を盾にとり、影に隠れるようにして、自分で自分に言い訳をしながら何もしない時期をやり過ごしていた。最低限の仕事はしていたけれど、まさに「最低限」。生きていけるだけの仕事。人として自分を保てるだけの生活。プライベートで友人と会う機会も最小限に、底へと底へと潜っていった。スケジュール帳は、真っ白。
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人というのは、極限まで休んだあとは、浮かびたくなるものなのかもしれない。
「このままじゃダメだ」と思えたのは、誰かの言葉が背中を押してくれたのもあるし、やってみたいと心の底がうずく仕事に出会えたのも、ある。
浮上できた要因にはさまざまなものがあるけれど、わたし自身、元来「飽き性」だからというのがデカい……。
とどまっていることに、飽きたのだ。くすぶっている状態に、飽きたのだ。飽きるまで休んだからこそ、「ここらへんでエンジンを吹かしておくか」とハンドルを握る気になれたのだ。
言葉をくれた周りの人たちに感謝したい。仕事を依頼してくださったクライアントさんに対しても。少しずつ秋の気配が濃くなってきた頃、もう一度「動」の時期がやってきた。今もその流れの中にいる。
ずっと書きたいと思っていたメディアに、企画を持ち込んだ。返事さえ来ないだろうと予想できる先にも、ダメ元で営業した。企画力や発想力が欲しいと思い、手当たりしだいに本を読んではノウハウを試した。常に「読むこと」「書くこと」を考える日々が戻ってきた。
動きたいのに動けない……と板挟みになっている状態は、想像以上につらいものだ。自分が自分を貶してしまうのも心を苛むけれど、周りが自分のことをどう思うかと思いを馳せてしまうのも苦しい。
そんなときは、飽きるまで休むのもアリなんじゃないかって思う。
飽きるまで、心が「もうイヤ!」と本能的に叫びだすまで、休みきってしまう。そうすれば、自然と動きたくなるんじゃないか。人間の本能にはたらきかけてみるのもいいんじゃないか。自分を信じ、頼ってみるのもいいんじゃないか。
自分が動き出せば、人生は動き出す。
2020年は、「動」からはじまり、「静」を通して、「動」に没入していった一年だった。この流れのまま来年へ行く。新しい年が、今から楽しみだ。
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