さみしい、という理由で泣いた日
自宅に帰ったらそこにいると思いこんでいた、当時付き合っていたひとが、置き手紙(というより、置きメモ)を残して帰ってしまっていたときに、いちばん驚いたのは、さみしくて泣いたことだった。
わたしはそのころ20代前半で、それまで「さみしい」という理由で泣いたことは記憶になかったのだけれど、そのときはえんえんと泣いた。うんと小さいころ以来、こんな泣き方をしたことはないと、自分でも思ってしまうほどに。
そして、30歳になったいま振りかえってみても、「さみしい」が理由の号泣はそのとき限りだった。どうして、なぜ、あの瞬間があんなにさみしかったのか、いまだに不思議と思いかえしたりしている。
ひとは、さみしいときに泣けるんだ、とおもった。
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自分のことを、人造人間とか、ロボットとか、アンドロイドとか、およそそういった、感情のない人間ではないものに置き換えてかんがえることが、わたしにはよくある。
さみしいであろう瞬間に、わたしはさみしくならないし、かなしいであろう瞬間に、わたしは泣かない。
必要な感情がごっそり抜け落ちているように感じられて、長らく、そのこと自体がコンプレックスだった。
いまは、どうか。
「さみしくて」泣いたあの日を境に、きっと、感情が動くという感覚を覚えたのだと思う。
思ったことが思ったように伝わらないと悩んでいた。
嬉しいのに嬉しいと伝わらないことがつらかった。
でも、わたしはちゃんとさみしいときにはさみしいといって泣けるんだ。
あの記憶があるからこそ、わたしは、自分にだってきちんと感情があるのだと信じることができている。生きることができている。
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置きメモの横には、そっと、ぬいぐるみが添えられていた。
抱きまくらのように使っていた、お気に入りの、間延びしたシロクマのぬいぐるみだった。
「また来るよ」という意味だったのか、「黙っていなくなるけどさみしがらないでね」というメッセージだったのか。
さみしい、という理由で泣いたあの日、すぐに戻ってきてほしいと言えなかったわたしのことは、今のわたしがなぐさめてあげたい。
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