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今日も何もない素晴らしい一日だった
日記を書いている。きちんとした日記帳があるわけではない。ノートの片隅に思いついたように書いたり、手帳にメモしたり、その程度だ。何か目的があって書いているわけでもないし、大したことでもない。2〜3ヶ月後の自分が見て「何書いてんだコイツ」と思うようなことばかり書いている。
「日記を書いている」という話を妹にしたら、「日記に書くようなことが、私の毎日には起こらない。私が日記を書くとしたら、今日も何もない素晴らしい一日だったって書くだろうな」と言われた。
なにそれ。素晴らしすぎない!?
特段、良いことも悪いことも起こらないってことだろうけど、そんなに素晴らしいこともないだろう。なんてったって「素晴らしい一日だった」のだから。可もなく不可もないってことは、普通に生きていられるということは、おそらくこれ以上ない奇跡に近い。
流行りの感染病、戦争、大なり小なりの争い、税金増額、物価高、上がらない時給。世のなかには、見ようと思えばたくさんの「負」が落ちている。そのことを考えるだけで気持ちが滅入る。あからさまな言葉を使ってしまえば、この先がんばって生きていたって、何も得なんてないような気さえする。損するばかりだ。
でも、現実を見ると、私たちは生きている。なんだかんだ言って、毎日のご飯に困るほどではないし、たまには贅沢して高めのケーキを買ったり、回転寿司に行くことだってできる。ウン十万円するカバンを買うのは無理でも、数万円くらいの靴ならなんとか、頑張れば買える。吹き出物ができたら皮膚科に行けばいいし、腰が痛かったらマッサージに行けばいい。これ以上ない、普通で何事もない日が続くことのほうが、圧倒的に多い。
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ビジネス書や自己啓発書を読んでいると、「何気ない毎日も大事にしよう」「一日一日を大切に」「日常にこそ小さな幸せが潜んでいる」と書かれていることがある。もっともだ。そんなありがたいお言葉に触れるたび、朝にあたたかいコーヒーを一杯飲めるだけで、ありがたいと思う。時間通りに電車が来てくれるだけで、ありがたいと思う。
でも、人間ってものはとてもゲンキンというか、「小さな幸せに感謝すること」にさえ慣れてしまう生き物ではないだろうか。物事にはメリハリが大事なので、小さな幸せに感謝する日も必要だし、ごくごくたまには堂々と「今日も何もない素晴らしい一日だった」と、日記に書く日があってもいい。
あなたの今日は、どんな日でしたか?
私の今日は(も)、何もない素晴らしい一日でした。
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