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いくつになってもプロになっても、ダメ出しされるのはうれしい

「あれ?わたしってMなのかな?」と思うことは、よくある。

サディスティックよりもマゾヒスティック。思い返せば幼少期のころから、友達と喧嘩したり家族と気まずくなったり勉強が上手くいかなかったり仕事で躓いたりしても、どこか「酔ってる」感覚があった

いま、苦しんでる!いま、しんどいって思ってる!いま、逃げ出したいって、思ってる!

きちんと苦しんだり悲しんだりしてる自分の影に隠れて、ひっそりと、ちゃっかりと、降ってきた苦しみや悲しみに対して喜び、味わってる自分がいるのだ。

こと最近は、仕事や文章に対して、それが顕著。

曲がりなりにもライターとして活動していて、そう、してしまっているからこそ、「文章の書き方」そのものに対して指摘を受ける機会がガクンと減った。

ある意味「プロ」という肩書きはこわい

文章を書いて対価を得ている、それだけで「プロ」と認識されてしまうし、まるで水戸黄門様が持つ印籠のような効果さえ発揮するのだから。

わたしは、ダメ出しされたい。

自分の書いた文章について、ツッコんでほしい。「こことここと、あとここがダメ!てんでダメ!」と言われたい。鬼滅の刃に出てきた太鼓の鬼が人間だったころ、物書きとして書いた小説を足で踏みつけにされながら「お前の書いたものはクズ同然なんだよ!」と罵られたように、罵られたい

これは、言い過ぎ。

だけどそれくらいの勢いで、私の文章としっかり向き合い、ダメなところを指摘してくれる指導者や編集者と出会いたい……と思いながら書いてきた。私がそれに値するまでの文章が書けていないってことと、出会う人みんなどこまでも優しすぎるってことが、重なり合ってきたのだ。

そのタイミングで、「ぶんしょう舎」に出会った。

5歳さんが主宰する文章寺子屋のぶんしょう舎。先日「自分の好きなものやハマってるものについて書きましょう!」という課題が出された。提出した私の文章は、こちら。

最近ドハマリしているYouTuberエミリンについて、いま出せる最大限の愛を綴った。最大限の……愛を……綴った、つもりだった。

こう言ってはなんだけど、書いている途中や書き上げた後も、ずっと違和感があった。「これで終わりか?」という気持ち。「こんなもんなのか?」という不足感

まだまだ書けるはずなのに、出てこない。ファンだと言っておきながら、よく見る文章しか書けない。

5歳さんに言われた。「ライターとして他の人へ取材をしてるからなのか、自分のことが書けないと悩む人は結構多いよ」。

そのとおりだった。私は私の愛の強さを信じてるけど、同じ熱量を文章へ注ぎ込めているかと言われたら、まったく足りてないのだ。さすが5歳さん、そのあたりをしっかり汲み取ってくれたのだろう。

うれしかった。とてつもなく嬉しかった。「足りない、もうひと頑張り!」と言われてるのに、うれしくてうれしくてたまらなかった。

私にはまだまだ磨かなきゃならない面がある。努力しなきゃならないこともある。やればやるだけまだ行ける先がある。そう思えるだけで「書こう」と思えた。

そう思わせてくれたぶんしょう舎に、ほとばしる愛が止まらない。

あなたは、書くことに対して何を思っていますか?

書くことを仕事にしてる人、向き合いたいと思ってる人。はたまた生きることと書くことは関係がないと思ってる人、苦手だから距離を置きたいと思ってる人……さまざまな人がいるはずだ。

書くことは、少なくとも、あなたを欠落させない

自分が何を思うか。何を感じるか。好きなことに対してどんな言葉で語るか。誰よりも何よりも「自分が」、それを知りたがっている。きっと。その方法を、ぶんしょう舎は教えてくれる。

オンライン受講ならまだ受付申し込みしてますので、興味のある方はCampfireのページだけでもどうぞ。


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