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私は私と遊んでいる

少し前のこのnoteにも書いた。私は自分の人生を、どこか試しているところがある。人生まるごと使って実験しているような、子どものころからの延長線上で遊びながら生きているような、そんな感覚がずっとある。

ひとり遊びがすきで、得意だ。

共働きの両親で、小さいころから本を読んだり絵を描いたり、ひとりで完結する遊びをしてきたからか、ひとりで時間を過ごすことはそこまで苦ではない。

こういう話をすると「寂しくなったりしない?」と訊かれることがあるのだけれど、寂しい、とはちょっと違う。

どちらかというと、私は大勢の人のあいだを一人で歩いているときなんかに、たまらなく寂しくなる。複数人の友人と会って話しているときなんかに、ふと寂しさに陥ることがある。

ひとりでひとりの時間を過ごしているときに、すきなことをしているあいだに、寂しくなることはあまりない。それはきっと、私はひとりだけれど、ひとりじゃないからだ。

ーー

どういうことでしょうか。説明しよう。

私のなかにもうひとりの私がいるんです。そう言ってしまうと、途端に怪しさが増すけれど、二重人格とかそういうことではない。

私は私のことを、完全なる自分というよりは、いつ分離してもおかしくない「複数の私」が凝縮した一個体だと認識しているのだ。

『私とは何か――「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎)という本がありますね。分かれている人が、私という一つの身体のなかにおさまっている、という感覚が近いです。

いつでも取り出し可能。対面する相手によって、適切な自分が顔をだす。テンションが高い相手ならテンションの高い自分を、フラットな相手にはフラットな自分をお届けする、という感覚です。

ひとりでいるときは、表に向けていろいろと体裁を繕わずともいいのですが、私はひとりでいるときも複数の自分がいるのを感じます。

そのときの気分によって、いろいろな複数の自分と遊んでいる。頭のなかで、話をしている。悩みを相談もするし、泣き言をいうこともある。

まさに、私は私と遊んでいる。ひとりでいるときも遊んでいるし、常に自分という話し相手がいてくれるので、飽きないし終わらないんです。

ーー

こういうnoteを書いているときは、とくに顕著です。「こんな書き出し方しちゃったけど、どうしたらいいだろう」「このnote、どうやって締めたらいい?」「とりあえずこんな感じでいいかな」とか、常に自分に話しかけています。実際に、口に出ることもあります。

常に自分といるから、飽きない。明日はまた、違う自分かもしれない。明日の自分ががんばって生き続けてくれたら、1年後、2年後、3年後の自分にも出会える。

がんばってくれよお、と思いながら、生きてます。

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