ゆたかさって、想像力のことだと思う。
24歳の頃、わたしは葬儀会社で働いて2年めを迎えていた。
白血病で亡くなることが分かっている小学生の女の子。本人と、ご両親と祖父母を交えて、何度か「生前の打ち合わせ」をした。
本人が生きている間に、どんな式にしたいか、式にはどんな人に来てほしいか、亡くなった後はどうしてほしいかを話し合う打ち合わせだ。
わたしは葬儀社員になって2年めだったけれど、もちろん、そんな環境に慣れっこになっているわけではなかった。横には自宅療養している当の本人が眠っていて、同じ部屋で、彼女が亡くなった未来について話し合うのだ。気を確かに保とうと何度も自分を律さなくてはいけなかった。
女の子が亡くなった日、プロとして失格だけれど、わたしは泣いた。誰にも見られない場所で泣いた。昨日まで生きていたあの子が亡くなった。信じられない、信じたくない気持ちで潰れそうだった。
最後まで式の担当として責務を果たし、ご両親とすべてのやり取りを終えたあと。ふとお母さまがこぼした一言が、今になってもわたしには忘れられない。
「娘の入ってるLINEグループの、通知が止まらなくて」
深く話を聞いてみると、仲の良いクラスメートたちとつくったLINEグループに、女の子の名前がまだ残されているらしい。彼女が亡くなったあともやり取りが続いていて、その通知が未だ届いているらしい。
もう見る人はいない、届く先のない通知。
最初は心あたたまる話かと思って聞いていたけれど、何やら雲行きが怪しかった。問題は、そのやり取りの内容にあった。
「亡くなったらしい、とか、お葬式に行くか行かないか、といったやり取りをしているのが、見えてしまって。代わりに返信するわけにもいかないし、どうしたらいいのか……って」
それを聞いた瞬間のこと、そのあとわたしがどのように応えたのか、あまり覚えていない。ただひとつ思い出せるのは、くっきりと浮かび上がる怒りだった。いや、怒りでもないかもしれない。憤り、不信感、疑問……そういった類の感情だったかもしれない。
彼・彼女たちは、自分たちがやり取りしているLINEグループのなかに、白血病で亡くなったばかりのクラスメートがいることを想像できなかったのか。
本人は亡くなってしまったとしても、家族が見るであろうことを想定できなかったのか。
見ざるを得ないやり取りを、無慈悲な通知が届く先のことを、少しでも考えてみることはできなかったのか。
せめて、文字に残らないよう直接話し合うことはできなかったのか。
相手は小学生の子たちだ。善悪の区別がつく子も、つかない子もいるだろう。わたしが考えたことは、想像力をなくした途端に人はゆたかさも失う、ということだった。
ゆたかさって、想像力のことだと、わたしは思う。
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SNSの誹謗中傷を苦に、若い人たちが自ら命を落としている。
言葉の使い方も、日々の些細な行動も、すべては個人の想像力によって決まる。これを言ったら相手はどう思うか、これをしたら相手はどう感じるか。
場がSNSに変わったとしても根本の考え方は変わらない、変えるべきじゃない。言葉を発するのはいつだって人で、受け取るのもいつだって人だから。
陳腐かもしれない。
真面目に語れば語るほど、軽く流されてしまうかもしれない。
それでも、ひとりひとりが声を上げていかなければ変わらないと思うから、わたしは何度でも何度でも、こうやって言葉にする。
ゆたかさは、想像力だ。
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