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不幸先取りグセ


いまこの瞬間を生きていることがしあわせで、何も不満や文句が浮かばないようなとき、ふと怖くなるときがある。

急にこの時間が終わったら。
この幸せで楽しい瞬間が尽きたら。
好きな人がいなくなってしまったら。

現実になるのがこわいので、わざとそうなったときのことを、それはそれはリアルに考えて、心の備えにしている。私はこれを、ひとりで勝手に「不幸先取りグセ」と呼んでいます。

思い返せば、学生の頃のテスト返却のときもそうだった。自己採点してある程度の点数を想像してはいるけれども、その予想に届かなかった場合のことを考えて、心の防波堤としてものすごく低い点数だったときのことを考える。

このクセはあまりよくないものとされていて、常にポジティブに前向きに思考することが求められているけれども、心を守るという観点でいえばこれ以上ない方法だと思えてならない。

一緒にいて楽しい人たちと、楽しい話をして、楽しく時間を過ごしたい。私はこれまでひとりでいることが好きで、好きだと思いこんでいて、「さみしい」と強く思ったこともあまりなかった。

だけど、一緒に時間を過ごすことが楽しいと思える人たちもいるのだ。「おやすみ」となかなか言い出せないこともあるのだ。明日も「おはよう」と言い合えることに幸福を感じる日がくるとは思っていなかった。すべて、シェアハウスに住むようになってから実感していることだ。

シェアハウスのシェアメイトというのは、とても不思議なもので、家族とも友人とも恋人ともちがうのに、一緒の家で暮らしている。

まだまだこのシェア文化は浸透しきってはいないのかもしれないけれど、少しずつこの魅力に気づく人が増え、今後ますますシェアに取り憑かれる層が広まっていくはずだ。

楽しくて、幸福だからこそ、終わりがさみしい。

最高にしあわせな瞬間こそ、わたしは心のどこかで、誰ひとり残っていない空っぽのリビングを想像するようにしている。


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