いつもと変わらないあなたへ
もうここにはいないあなたのことを考え続けて数ヶ月が経ちました。
起き抜けにポットでお湯を沸かす後ろ姿も、ぼうっと窓の外を眺めやる横顔も、出勤前ギリギリにならないとネクタイを締めようとしない癖も、笑った目尻の皺も、ぜんぶがありありと、まざまざと思い出せるので、いつもと変わらないあなたがまだここにいるような気がします。
お昼前まで寝過ごしてしまうことが増えました。
朝のコーヒーをねだられることもないので、ポットの掃除がおろそかになります。
毎日欠かさず洗濯をして、ベランダに干して忘れずに取り込んで、シャツにはアイロンをかけて畳んでおいて、そんな営みを都度褒めてくれる人もいないので、3日に1回のペースになりました。
あなたと出会う前から私は暮らしをしていたはずなのに、ひとりだった頃の細やかなことが思い出せません。
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「このカメラ、どうしたの?」
不意に姿を消してしまう数日前に、あなたは唐突にカメラを買ってきましたね。一眼レフの、もんのすごく高そうなもので、私は無闇に触れてはならないと一瞬だけ緊張しました。
「趣味にしようと思って」
あなたには、そういうところがありました。
無趣味なのか多趣味なのかわからないところ。まだ興味が芽生えはじめる前から、「面白そうかもしれない」という好奇心だけで、形から入るところ。
そんなところも含めて好きになりました。
「良いね。公園とか行こうよ」
「写真いっぱい撮ってあげる」
「撮られるの、苦手なんだよなあ」
「カメラを意識しちゃいけないんだよ」
そう言って、いつもの笑顔で飄々と、慣れた手つきでカメラを取り上げ私にレンズを向けましたね。
もう、やめてよ、と言うのに、いいじゃんいいじゃん、と興に乗ったあなたはシャッターを切る手を止めない。やめてよやめてよ、と顔を隠しながら、私は嬉しかった。あなたとの思い出が形に残る営みは、すべて尊く愛しいものだと知っていたから。
どうしていなくなったのですか。
あんなに幸せな写真を撮ったのに。晴れた昼下がり、お互いに仕事のことなんて考えなくてもいいタイミングを狙って、写真を撮りに行こうと約束したのに。
カメラごとあなたは消えてしまった。せめて、1枚だけでもいいから残しておいてくれたならよかった。思い出ごと、ふっと途絶えてしまった私の切なさを、虚しさを、喪失感を、悲しみの量を、あなたは想像しましたか。
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まだこの部屋から引っ越すことができないのは、いつか、そう遠くない未来にあなたがひょっこりと、あのカメラを抱えて戻ってくるのではないかと、心が期待しているからです。
すっかり姿形が変わってしまっていてもいい。無精髭が生えていても、少々疲れていても、新しい彼女ができていても、カメラを持っていなくても、すべてまるごと受け止めて許すつもりです。許しとは、傲慢だけれど。
だから、帰ってきてほしい。
あの日あの瞬間レンズが反射した。カメラ越しに見える私をどんな思いで見ていたのあなた。いなくなってしまおうといつ決心したの。夢、夢、夢、その果てに、お願いだから私も連れて行ってよ。カメラなんかじゃなくって。
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