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「仕方ない」が口癖になっている世界

人生の大半を刑務所で過ごした元殺人犯・三上(小説では山川)。まっすぐで人情に溢れた人なのだ。曲がったことが大嫌いで、すぐにカッとなってしまうけれど。

誰もが「仕方ない」と言いながら上手くスルーして、見えているけど見えていないフリをしている。そんな生き方を、知らないうちに心得ている。それが三上にはできない。

だって、間違えているんだから。正しいことじゃないんだから。

よってたかって弱い者をいじめ、殴ったり蹴ったりすることが「仕方ない」で済まされていいんだろうか。障害を持っているからって影でけなして、笑い者にしていいんだろうか。理由もなく難癖をつけられて、黙って我慢するのが「生きること」なんだろうか。

そのすべてに、三上はイエスと言えない。「仕方ない」で流せないし、曖昧にはできない。彼のような人間が自分らしく生きられない世界は、なんにもすばらしくない

「レールの上を歩いている人間も幸せを感じられないから、そこから外れた人間が許せない」

失敗は失敗だし、過去は過去だ。そして、犯罪は犯罪だ。やってしまったことは取り戻せないし、過去に戻ることもできない。だからこそ、レールから外れてしまった人間には、その上に戻る選択肢が与えられなくちゃいけない。失敗を償う権利を提示されなくちゃいけない。

もし私の家族や友人が犯罪に巻き込まれ、理不尽な経緯や理由で仮に命をなくすことになってしまったら、もちろんこんな悠長なことはいえない。加害者にはさっさと刑務所にでもなんでも入ってもらって、然るべき罰を受けてもらいたい。

今これを書いている瞬間はそんなことは起こっていないので落ち着いていられるけれど、もしも現実になってしまったなら、何もかも忘れて脳の芯からまっさらになってしまうだろう。

それでも、今はこう思いたい。然るべき罰を。然るべき処遇を。そして、然るべき福祉と制度を。

一度犯罪を起こしてしまい、刑務所で刑期を満了し出所しても、帰るところのある人は限られるという。まともな社会生活を送れず、再犯してとんぼ返りなんてこともザラだとか。

「仕方ない」で済ますのが楽だけれど、そうはしたくない気持ちも確かにあるのだ。具体的にどんなことができるのか、実際にできるのかもわからない曖昧な位置に立っているけれど、こんな世界、なんとかしたいと思っているのだ、私だって。そう思っている人が大半じゃないだろうか。

ひとりの力じゃどうにもできないことは十分承知している。この映画が、よりたくさんの人に観られることによって、少しでも意識の変わる人が増えてくれれば。そうすれば、可能性はゼロじゃないはずなのだ。「仕方ない」が口癖になっている私のようなひとが、ひとりでも減る可能性

仕方なくはない。なにかできるはずだ。これまで蓋をしてきたものに向き合い、自分ごとにする。今からでもできる。きっと、きっと。


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