静かに怒っているのかもしれない
たとえば電車が遅延したせいで会社や学校に遅れ、やり場のない怒りを駅員さんに向けているサラリーマンのおじさん。たとえばカフェ店員の接客が気に入らずにねちねちとレジ先で文句を言うおばさん。
こういった、関係のない第三者も見ている前で堂々と発露させる怒りは、とても醜いものだと思っている。
けれど、人ってみんな心のどこかで、静かに怒っているものなんじゃないだろうか。表に出すか出さないかの違いだけで、怒りを体内に飼っていない人は少ないと思うのだ。
かくいう私も怒っている。
決して表には出さないけれど、自分の身を省みる教材として、反面教師にするためのネタとして、着々と溜め込んでいる。不思議とそうすることで、怒りを発現させなくとも昇華できるようになってきた。
それでも、怒っていることに変わりはない。
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つい先日も、別にそこまで怒ることではないだろうと言えるようなことで、イラッとし、見事に怒った。
その場で怒鳴ったり、相手を無視したりはしなかったけれど、コミュニケーションの濃度をあからさまに薄くして「遺憾に思っています」とアピールし続けた。最も面倒なパターンだ。
私は、怒りそのものを否定はしない。むしろ、自分という人間が軽んじられたり、存在や人格を蔑む目に遭ったなら正当に怒るべきだ。誰のためでもない自分のための怒りである。
心ない言葉を投げつけられて、傷つけられたので怒った。この件に関しては謝罪を受け、それを認めているので今更掘り返したりはしない。
だけど、この事実自体はいつまでもどこまでも、心の中に在り続ける。
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自戒も込めて書いておく。
言葉は簡単に人を傷つけるし時には殺すこともある。自分の口から発しようとする言葉が、目の前の相手にどれくらいの影響を与えるかを常に慎重に検討するべきだ。
何気なく、悪気なく、調子にのって口にする言葉ほど鋭利な武器になる。お酒が入っている場合も要注意である。想像力が必要な場面ではあるが、人としての思いやりと配慮があればそこまで難しいことではない。
得てして、傷つきやすく弱い人間ほど、軽はずみな発言で周りの人を傷つける。優しい人ばかりではないことを知るべきだ。傷つけた事実は謝ったって消えない。今日までは許せていたけれど、明日になれば我慢できずに離れていく人もいるかもしれない。
一人で生きていく覚悟があるのならば好きに喋ればいい。
あなたの言葉はいったいどれだけの人を傷つけてきただろうか。
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いつも朗らかな友人。
優しく隣に寄り添ってくれるパートナー。
楽しい時間を共有してきた家族、たくさんの仲間たち。
そうは見えないかもしれないけれど、もしかしたら彼・彼女たちの誰かも、静かに怒っているのかもしれないと想像したほうがいい。
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