「つねに疑う」中立性について
本を読んだり記事を読んだりしていると、書き手が堂々と書いていればいるほど「そうそう!」と同調してしまう癖が、私にはある。
よっぽどひどい国籍・人種差別だったり、人権侵害的内容であれば別だけれど、そうではない「ひとつの考え」に対しては、そんな考え方もあるよねといったん飲み込み、受け入れてしまうのだ。
それはそれで、悪くない姿勢だと思ってはいる。
それでも、つねに疑うことを忘れてはいけないとも思うのだ。フラットに、中立にいることはつまり、何に対しても疑いの目を向けて、簡単には盲信しないということでもある。
つねに疑うという中立性について考えたい。
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最近の具体的な例でいうと、私はよくイケウチオーガニックのオウンドメディア「イケウチな人たち。」や、WaseiSalonのブログを読むことが多い。
どちらも好きで、その理念や価値観に共感しているからこそ時間を割いて読んでいるのだけれど、いくら好きだからといってそのすべてを無条件に、自分の考えもなしに受容しまくるのは危険だ。
洗脳とか教祖とか、あえて宗教じみた言葉を選ぶならこういうことになる。
宗教を信じること、神を信じること、洗脳されることが「悪」だと言いたいわけではないし、もちろん、上に挙げたメディアがそれに準じたものだと主張したいわけでもない。
私は極力、幸せの形を限定したくはないと思っているし、人の思う幸せなんてそれこそ十人十色なのだ。勝手な考えで決めつけたくはない。
「この人」が言っているからといって、すべてが正しいわけではない。発されているものをそのまま受け取って盲信するのは思考停止だ、と言いたい。
あくまでなだらかな地平線に、フラットな自分で立っていたい。
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つねに疑う姿勢を忘れずに、と書いてしまうと、誰も信じられない人間不信者のようで寂しいのだけれど、ひとつ思考を挟むことはとても大切だと思う。疑う心、自分の頭で思考する癖、吟味する気持ち。きっとそれらが、自分を今よりも何倍に成長させてくれると信じて。
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