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自分を描くためのペン

大学に入ってから、なるべくボールペンを使うようにしている。

成人すると、公的な書類を書く機会が増えた。今までゼロだったものがドカンと増えるので、そのたびに緊張している。書類の量としてはたいそうなものではないのだが、フリクションや消しゴムで消せない文章がどんどん増えると、「間違えられないぞ」というプレッシャーがかかる。そのせいかボールペンを握ると、シャーペンで書く以上に字を間違えるようになった。

普段から使っているペンでは大して間違えないのに、いざペンを持ち替えると指先が震えてしまう。それなら普段からボールペンを使えば、シャーペンと同じように緊張しなくなるのではないかと思い実践したところ効果てきめんだった。普段使っているペンで書くのは大変気持ちが楽だ。それからというもの、大学ではシャーペンを使うのをやめてボールペンだけを持つようになった。

調子に乗って一人称も「私」と言うようになった。面接の時や公的な場所ではやは「私」が望ましいと思っている。でも、いざ慣れない言葉を使おうとすると、自分の呼び名を一瞬考えなくてはいけないので、言葉のテンポが悪くなる。喋るときは普段使い慣れた言葉が良い。だからこそ「私」を呼び慣れた一人称に加えることにした。いざ使うものに合わせて、普段の行動を変えてみるとここぞというときでも、いつもと変わらない自分でいられるようになった。

俺、僕、私、ワシ。自分のことをいろいろ呼び変えていくと、新しい自分になったような気がする。しかも私は同じ人と会話するときでもたびたび一人称を変える。

「あたしはさ」

なんて言っても、ああ、はいはい、とスルーされる。またなんか変なこと始めたなと思われてはいるかもしれないが、さして深く掘り下げられることはない。

周囲の人たちは、俺とか、私とか決まった一人称を使うことがほとんどだ。少なくとも、私個人と接するときにわざわざほかの呼び名に変えたりすることはない。性別や立場によってある程度固定されていくのだろう。一人称は自分というアイデンティティを示す一つの手段でもある。



最近私の周りで、性別を再定義する人が増えてきた。レズビアン、ノンセクシャル、Aセクシャル、ジェンダーレス(エックスともいうそうだ)などなど。

自分の性別に違和感がある友人に囲まれている。時々LINEが来て「たぶん私、これだと思う」と教えてくれる。私もだんだん慣れてきて「はいはい、了解」と答える。彼女たちは、女性という枠に入れられたくないと言って次々と性別を脱ぎ去り、自分の心地良い場所を探している。

ノンセクシャルのMさんから、話を振られたことがある。

「私さ、生きてると女性性ってのをすごく感じるんだ」

女性として見られる。ということを、意識する場面をいくつか聞かせてもらった。下ネタを聞いているときや、洋服を選んでいるとき、褒められる言葉など、何となく自分の行動に制限を感じるとき、そこには女性という壁が立ちはだかるのだという。

「お前はさ、男性性って感じることある?」

Mさんに問われた。

考えてみると、男性性を感じることはほとんどない。そもそも服にはあまり興味がないし、下ネタは積極的には言わないし、褒められることもあまりない。

ただ、女性性に相当する心地の悪さには心当たりがあった。

「男性性を感じることはあまりないけれど、男の私がそれに該当するものを挙げるとするなら『立場』だと思う」

例えばスーツを着たときのこと。私は「今日はかっちりしてるね」と言われる。かっちりしてる、というのはどう言うことかというとフォーマルな格好ということだ。

しかし、これは正確には褒めているわけではない。例えば似ている言葉に「チャラいね」がある。この二つは両方とも、その服装を着ている人がいそうなグループを指摘しているだけにすぎない。

かっちりしてるね、は、サラリーマンっぽい、社会人っぽい。チャラいね、は、文系のウェイ系といわれるような人たち。オタクっぽいとか、意識高いなんて言われるときもそれは外見ではなく「その服着てる属性の人たちを知ってるからそこへより分けましたよ」と言うくらいの意味だ。それは自分たちと同じ立場か、違う立場かという分類も含んでいる。

男性が(もしくは男性としての私が)人を分類するときの特徴は、その人の性別ではなく「立場的にどんな人なのか」という、ある意味上下関係や自分に対する影響力で差し計っている部分が少なからずあることだ。

私は男であることを意識することはほとんどないけれど、自分の立場によって取るべき行動の制限を感じることはある。目上の人には逆らえない、目下の人も同じように私のお願いを断れない可能性があるので、とにかく、対等に対等にと心がける。目上の人からはとにかく逃げる。目下の人は意図を踏みにじってしまわないようそーっと話す。

女性が性別に疲れて脱ぎ捨てるのならば、男性である私は立場を真っ先に脱ぎ捨てるだろう。しかし、決められた枠の中にいるのがイヤで飛び出した人たちにも、意識高い系とかフリーランスとか、名前をつけられて、立場を与えられてしまうのが男性サイドの苦しみなのかもしれない。

「自分は何者でもない、今まで無かった何かになりたいわけではなく、個人として話したい。立場も何も関係なく、ただ、あなたと話しがしたい」

そうした主張を持つ人たちにも、名前と立場と属性が付けられていく。そして、いつの間にかその枠の中で生きていて、ある日越えられない壁を感じる。

私とMさんは別の形ではあるけれど、お互いに今いる枠の中に居心地の悪さを感じていて、その形の見えない枠に対して「自分の大切な軸になる部分をもう一度決め直す」という方法で戦っている。

私は、僕は、君は、あなたは。誰もが当たり前のように使う言葉、自分を指して、相手を呼ぶ、当たり前のようにそこにあった言葉たち。私たちはいざ使ってみたらぎこちなくなって仕方がなかった枠を脱ぎ捨てている最中だ。一つずつ少しずつ、自分の体に慣らすように、それが当たり前に感じられるようになるまで繰り返す。きっと私たちはそれぞれの手にペンを握って、これから何度も自分の性別や立場を書き直していくのだろう。

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