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生活に副音声を。

エッセイを書き上げる方法がいまだによくわかっていない。

何度もエッセイを書いているのに、パソコンの前に座って文章を書き始めてからも文章がエッセイとして形になるのか全くわからない。散文、などと言われるものなので、ざっと書き散らかしてさっさと公開してしまえばいいのだが、散文どころか文にさえならず公開されないままEvernoteの中に埋もれているエッセイも40本ほどたまっている。何度か処理しようかと思ったこともあるのだが、言葉を加えようとしても一向に話が進まない。

エッセイになれなかった文章たちの反省を活かして、かっちり過ぎず緩すぎない構成メモを作ってみたこともある。しかし、この構成メモに書き込めたからと言って、必ずしも文章として形になるわけではなかった。

どこに進めばいいのか、何を書けばいいのか、書く前に何をすればいいのか。迷走状態に陥るのである。そして私は困ったとき、大体星野源さんの「そして生活はつづく」を読んで「あぁ、そうそう、こんな文章こんな文章」と思い返してもう一度パソコンに向かう。初心を思い出すのは大事だ。自分が書こうと思ったきっかけの本を手元に置いておくのは、行き先を見失ったときに役に立つ。

ところで、エッセイの語源は「試み」らしい。ウィキペディアで調べたので確かなことではないのかもしれないが「語源は○○である」と言われたら本当にそんな気がしてきてしまうので、今回は語源が「試み」であるものとする。

私の場合、試みとしては「このネタで本当に文章が書けるのか」という試みがエッセイだという側面は確かにある。目の前に転がっているコップからエッセイが書けるのか、ちょっと気になった独り言からエッセイが書けるのか。完成するかはわからないけれど、このネタは果たして読める文章になるのだろうか、という実験としてエッセイを書いている。

一方で、手紙のように、一人に宛てて心の内を書き出すこともあるし。ウケを狙って「こういうの好きなんですか」と伺う気持ちで文章をしたためることもある。その一つ一つがエッセイと呼ばれるようになり、私もエッセイと呼ぶようになった。

何度も書いていて感じるのはエッセイには目指すものも目的も、ないほうがいいのではないかということだ。

映画のDVDに特典でNGシーンとか、メイキングとか、副音声が入っていることがあるけれどエッセイはどちらかというとそういう位置づけだと思う。

電話しているときや、相談を受けたとき。今言うべきではないと思ったから言わなかったけれど、実は明日の夜ご飯のことを考えていた。とか、なんでそもそもあなたが相談してきたタイミングで夜ご飯のことを考えてしまったのかというと、なんてことがエッセイに書かれるのである。すごく真剣な顔をしていたと思うのだけど、服が後ろ前になっていることを指摘するタイミングをずっと待っていたとか、そういう話がどうでもいい文章として本編のあとがきのようにエッセイに書かれる。

逆に、私のエッセイは本編がないと存在感のないものなのではないかと思う。エッセイを書くために何かしても、ちょっと味気ないものになってしまう。誰かの本気や、真剣でシリアスな空間があったからこそ「いやぁ、あの時ずっとおなか減ってていつ抜け出そうか考えてたんだよね」なんて話が面白く感じるのだと私は思う。

「あの時は、今じゃないな。と思ったから言わなかったんだけど」

そんなセリフから始まる「そりゃ、言わなくてよかったね」と笑いあえるような文章がエッセイなのだと思う。

そんな文章だからこそ書き方がわからない。というよりも、書き上げる自信がないのだ。書けば書くほど「言わなくていいんじゃないの」「別にどうでもいいんじゃないの」と、思える文章に向かいあっていられる方法に私はまだたどり着けていない。強いて言うなら、心にちょっと余裕をもって調子が良いときは一心不乱に書き込む、とかそのくらいだろうか。結局、書き方ではなくしょうもない話題とそれを生み出す自分に向き合うメンタルの話になってしまった。でも、大切なことだと思う。

しょうもないことでも、書いているうちに文章に仕上がっていく。そうして書きあがった、どうしようもなく役に立たない文章を私はエッセイと呼んでいる。

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