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(1)溝の中へ降りてゆく。
両親と妹へ向けて、手紙のようなエッセイを書いた。
ただ「知ってほしい」という、それだけの手紙だ。
私と両親の間には溝がある。それを知ってほしい。
「家族だから」という言葉の橋は、脆いのか、短いのか、もうその溝を超えることはできないかもしれない。
かつて、私は深く傷ついた。そして、今もその傷は溝となり、人と人、私とあなたの間に開いている。
人と人とが行き来することを妨げる溝。
私を中心に
(2)大人には見えていないんだ。
夜、暗くなってから母は帰ってきた。
母が帰ってきたときの記憶は、いくつかパターンがある。例えば豆腐屋のおじさんが来た日のように外で待っていると、自転車でシューッと坂を下ってきたり、扉の前で待っていると階段をトントンと音を立てて上がってきたり、いろいろだ。ただ、このまま帰ってこなかったらどうしようと、思った。門限がない私は、友達の家に行くと「晩御飯になるまでいる子」になってしまうことがあった。手を
(3)もうそこは、故郷ではなかった。
父の転勤に伴い、生まれ育った場所へまた戻ることになった。引っ越す場所は、以前住んでいたアパートから少し離れた場所だった。
ただ、その近くて遠いエリアの違いは「学区」という通う学校を分けるにあたって決められた区画にとっては大きな違いだったらしい。私は、ほとんど同じ場所に引っ越してきたにもかかわらず、以前通っていた場所とは全然別の小学校に転校することになる。
小学校最後の1年を過ごしたのは、よく見
(4)分かち合えない恐怖と不安。
大人との溝。彼らは、頑張りを求める。
友人との溝。彼らとは、友情を求められる。
そのどれでもない、家族。私にとって一番身近な存在。彼らに私は「行きたくない」と言った。
私は知らなかった。どちらかと言うと、彼らも「大人」だということ。「どう見えるか」というものが、判断を大きく左右する。
夜ふかしをしてゲームをしている。好きな授業があるときだけ、出かける。体温計に表示される平熱と、不自然な頭痛
(5)最初の一人にならなれる。
インターネットの世界は、私が頑張っているかどうかなど、気にしていないようだった。顔も名前も知らない人々と、知り合ったかと言っていいかもわからないやりとりとか、フリーソフトをダウンロードするときや、普通のホームページにさえダミーのボタンがあった。チャットのページに行くと、何となくいる人々や、よく見知った人とダラダラ喋った。
今は5チャンネルになってしまった当時の2ちゃんねるとか、ニコニコ動画を見始
ー幕間ー「ありがとう」だけは聞こえる。
父が私のエッセイを読んでいる。
先日から、エッセイを連番にして投稿している。内容のほとんどは一夜で書き上げたものだが、あまりにも長いので分割して掲載することにした。しかし、ただでさえ長いのに読み直したときに気になった部分に言葉を書き足してしまう。そのうえ、投稿する前に少し言葉を補足する。それを繰り返していったせいで、現在2万2千6百文字に到達してしまった。
このエッセイを書くときは人と人の間に
(6)さよならの支度。
高校生の私は、記憶の中ではたいていトップバッターだ。先生が「これやりたい人?」と聞くたびに、さっさと手を上げた。
とはいえ、家から外に出る習慣から三年近く距離をおいていた私は、一週間に三回学校に行くのが精一杯だった。学年が上がるごとに、登校日数は増えたけれど、登校した日はまばらだ。だから、もしかしたら、私が休んだ日に立候補の話が出たときは、誰かが代わりに手をあげてくれていたのかもしれない。だけど
(7)家の扉を開く鍵
出かけるときは必ずポケットに鍵を入れる。私の使うすべての鍵が収まったキーホルダーだ。その中に、実家の鍵もある。
私が中学生にあがる頃、父は家を買った。不登校真っ只中の頃だ。その時初めて、自分の家の鍵を手にした。不登校の頃に関しては、外に出る用事はあまり無かった。
しかし高校生になると、休日も出かけるようになる。そして大学生になれば、日をまたいで家に帰ることもあった。
それぞれ自由な時間を過ご
(8)その日は一日寝てました。
両親は、保護者面談まで私が文化祭の実行委員長をしていることを知らなかった。
恋人に告白されたときは「付き合うって何?」という答えが出ないまま、告白を受けてOKしたにも関わらず一ヶ月くらい距離をおいた。私はずっと自分の話をしているし、話しすぎてしまうくらいだから調節しなければと思っていた。だから、自分の考えはしっかり話そうと決めて、感情だけの文章をやめ「こう考えている」ということを話し続けた。そし
(9)食い入るようにじっと見つめる。
友人と遊ぶ時は私が熱中していても気にしないでいてくれる二人で遊ぶことを好んだ。
私は夢中になると完全に「無」になってしまうので、はしゃぐような空気は流れなくなってしまう。しかしはしゃいで楽しんでいる様子をみせようとすると、心から楽しむことができない。
小学生の頃、家族ででかけた思い出の中に、楽しいものはたしかにあったけれど、同時に父の不満そうで心配そうな顔がよぎる。私の楽しい時間は、人に見せる
(10)家族への言葉
「あなたの幸せを願っています」
「応援しています」
そんな言葉を毎年、毎年、受け取った。
幸せを祈るのなら、何が幸せか聞いて欲しかった。応援するのなら、私が何に夢中なのか知ってほしかった。そして、夢中になって周りが見えなくなった私のそばにいて欲しかった。
私と向き合おうとして、言葉を尽くしてくれた友人たちがいる。恩師がいる。今や同僚もそこに含まれら上司や、年上の友人も私の言葉に耳を傾けてく