短編小説「シニガミとウィスキー」
店内はいつもどおり静かだ。気にならない程度の音量でジャズが店内を満たしている。ボーカルの甘い声に耳を傾けながらロックグラスを傾ける客が一人。貧相でツキに見放された顔をしている。他には客はいない。窓の外では何もない深海の光景がどこまでも広がっていた。
アリスはだまってグラスを磨いていた。グラス磨きは苦にはならない。アンドロイドは待つことが得意だから。政府アシストコンピューターアテナスの監視網にも入らないような、こんな辺鄙な深海でカプセルバーを営むのがアリスの日常。客は滅多に訪れず、たまにやって来たとしても黙ってバーチャル酒を一、二杯喉に流し込み、黙って帰っていく。常連はあまりいない。
ただ、時々ここには厄介事を持ち込む客が来る。
アリスが望むと望まざるとにかかわらず、それは勝手にやって来る。
フェイク樫の扉の向こうで転送エレベーターのベルが鳴った。
アリスはグラスを磨く手を一時休めて入り口を見た。扉を開ける前からただ事ならぬ気配が伝わってきた。カウンターの端で寝そべっていたグレートデーンが首をもたげて呻いた。厄介事がやって来た事をしらせる呻きだ。
扉を開いて一人の男が入ってきた。
男はとても背が高く、嵐の中でも歩いてきたのか、黒いトレンチコートと帽子はずぶ濡れであった。陰鬱で落ち窪んだ目をしており頰はこけていた。顎に僅かな鬚を蓄えていたが、それが男により一層陰鬱な印象を与えていた。男はわずかに微笑んでいるようにも見えたが、その笑みは見た者にどこか不吉さを感じさせた。
「いらっしゃい。先ず、コートを脱いだらどう?」
男はわずかに頷くとトレンチコートと帽子を掛けてカウンターの真ん中のスツールに腰掛けた。黒いストライプスーツの胸には限りなく黒に近い赤の薔薇が一輪挿してあった。男は座ってなお、アリスが見上げる高さであった。
「何にする?」
「バーボンをくれ。ウィスキーはバーボンと決まっている。スコッチはだめだ。あれは……」
男は一瞬だけアリスを見てから窓に視線を逸した。そして囁くように言った。
「不吉だ」
気になる言葉だ。だがバーテンは詮索はしない。
「バーボンをくれ。バーチャルで。いや、今日くらい本物にするか」
「氷は?」
「いらない」
濡れた革手袋を脱ぎポケットからタバコを取り出すが、タバコはすっかり湿っていた。男はタバコを箱ごと握りつぶすと灰皿に投げ入れた。
アリスがウィスキーのグラスを置くと、男はその横に万年筆を置いた。
「これで」
「物々交換はやってない」
「100年物のモンブランだ。買えば2万ポイントは必要だ」
「バーチャルにしたら。値段は十分の一以下よ」
男の顔に悔しさがにじむ。迷った末に万年筆を仕舞おうとした時、カウンターの隅で飲んでいた貧相な表情の男が声をかけた。
「その万年筆、俺が買おうか」
貧相な顔の男はやってきてモンブランを取り上げる。そしてキャップを開いて丹念に眺め始めた。
「確かに本物だ。だが2万ポイントってのはどうかな。まあ、ウィスキー一杯分くらいにはなるだろう」
貧相な顔の男は頷いて万年筆を胸ポケットに仕舞った。そしてアリスを見ながらウィスキーを顎で示した。代金は自分が持つという意思表示だろうが貧相な顔つきにあまりにも不釣り合いな動作だ。
貧相な顔の男が満足気に自分の席に戻ろうとすると、男の大きな手がその肩を掴んだ。あまりに力が強かったせいか、貧相な顔の男がのけぞった。
「何しやがる。ウィスキー一杯じゃあ不満だって……」
貧相な顔の男が息を呑んだ。貧相に驚きと怯えが混じった。
肩を掴んだ男の目は異常に大きく見開かれていた。その目は瞳の色があるのか無いのかわからなかった。それでいて目まぐるしく変化し続け見ているものの延髄を揺さぶり意識を拡散させた。
貧相な顔の男から表情が消えていった。そしてそのままその場にへたり込んでしまった。
「ちょっと、あなた何してるの」
アリスは男の腕を引き離そうと手を伸ばした。だがその手は何の抵抗もなく男の身体をすり抜けた。
「なっ!」
アリスは重力場を読み取れる右目にリソースを集中していった。すぐさま男の持つエネルギー場が浮かび上がってきた。そこにはブラックホールのようにどこまでもマイナスに落ち込んでいく大きな穴が存在した。この男は人間ではないしアンドロイドでもない。そもそもこんなエネルギー場を見たことがなかった。
「あなた何者なの?」
男は首だけアリスの方に向けると、目まぐるしく変化する目でアリスを見ながら歯を見せて気味の悪い笑顔を作った。
「死神。この男はすぐに事故に遭う運命だ。だから今ここで俺がこの男の魂をもらっていくことにする」
「厄介事は持ち込むやつは客じゃない。お帰り願うわ」
アリスは左右の手にそれぞれプラスとマイナスの電荷を集中させていった。そうすることでスタンガンのように相手を感電させることができる。死神にも通用するのかわからないが、黙って見ている訳にはいかない。
そしてアリスが両手を突き出すのと同時に、死神もまた右掌を突き出してきた。
するとアリスは見えない圧力を受けて背中から壁に叩きつけられてしまった。
「お前は俺に触れることすらできない。俺とお前ではレイヤーが違う。だが俺はお前をいたぶることができる」
男が再び右掌を突き出した。
アリスは再び店の奥まで吹き飛ばされた。
今や貧相な顔の男の顔面は蒼白になり精気を微塵も感じられなくなっていた。
「見ていなさい」
アリスは胸の前で印を結んだ。店内のジャズがいつしか規則的な鈴の音に変わっていた。
「同調周波数イの355」
鈴の音が僅かに変化した。聴く者の脳幹がしびれるような音であった。
死神が貧相な顔の男に向き直り大きく口を開いた。それに倣うように貧相な顔の男も口を開いた。
すると貧相な顔の男の口から乳白色に光る粒のようなものが一つ二つと舞出て死神の口に吸い込まれていった。光の粒は徐々に増えてゆき、光の奔流のようになり死神に吸い取られていく。それに合わせて貧相な顔はミイラのように干からび始めた。
アリスは般若心経を唱え始めた。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 ……」
すると今までミイラのように精気を失った貧相な顔が僅かずつ色を戻し始めた。
驚いた死神はアリスに右掌を突き出した。
だがアリスは渾身の力で耐えた。そして読経を続けながら前に踏み出すと袖口から何かを取り出し、今度は死神にではなく貧相な顔の男の肩に突き刺した。アリスの手にはアンプル注入器が握られていた。
すると貧相な顔の男の口から流れ出る光が減っていき、ついに止まった。死神がいくら力を込めて吸い込んでも、貧相な顔の男から光の粒が飛び出ることはなかった。
「何をした!」
アリスはアンプル注入器を死神に放った。
死神は顔の前でキャッチした。見ると「反魂丹」と読めた。古からこの国に伝わる究極の蘇生薬である。
死神はアリスを睨みつけた。だが自分の負けを悟ったのか貧相な顔の男から手を放してがっくりと肩を落とした。
「ウチのお客に手を出さないで」
「ああ、また逃してしまった。もうお終いだ」
死神頭を抱えてカウンターに倒れ込んだ。先程までの勢いはもうどこにもなかった。
「お終い? どういうこと」
「あと一人だったんだ。あと一人でノルマ達成だったのに。ああ、どうしよう」
すると勢いよくバーの扉が開き一人の女性が入ってきた。
美しく長い巻毛の黒髪を持つ女性で、女盛りという言葉が似合いそうな、妖艶で成熟した色香を放っていた。きっちりとブランド物のスーツを着こなし、胸には死神と同じ限りなく黒に近い赤の薔薇が挿してある。
女性はアリスが口を開くより早くアリスに頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
「あなた誰?」
「宅の亭主がこのお店でとんでもない粗相を働いたようで。本当にお詫びのしようもございません」
この状況から『宅の亭主』と呼ばれる相手は一人しかいない。つまり死神である。アリスが死神を見ると、明らかに動揺していた。動揺を隠そうとしてウィスキーグラスに手を伸ばしたが震えてうまく掴めなかった。
死神の女房らしき女性はつかつかと亭主の前に歩み寄ると間髪入れずに耳をねじりあげた。
「ぎゃああ。痛い。痛い。放してお願い」
「何が放してお願いだ。テメエたった今何してた。人様の魂かすめ取ろうとしただろ。どこの世界に他人の魂かすめ取る死神がいるってんだよ。このバカ」
「いやだって、この人もうすぐ寿命だし」
「もうすぐってテメエの時間で測るんじゃねえよ。人間と死神じゃあ時間感覚がちげえだろうが。そんなことだからノルマ達成できねえんだよ。このポンコツ社員が」
死神の女房の目がどんどんとつり上がっていき憤怒の表情は鬼そのものだ。それに比べて死神はまるで子羊だ。これほど明確な力関係も滅多に見られない。それもそのはず、女性は死神の女房であり更に上司でもあるのだ。
「あの、次は頑張りますので、今回は見逃して下さい」
「だめだ。これで三クオーター連続でノルマ未達じゃねえか。減給だ減給」
「ええー。ひどいです課長。僕たち夫婦じゃないですか。家計に響きます。助けて下さいお願いします」
「ざけんじゃねーよ。本来ならクビになるところアタシが皮一枚でつないでやってんだろーが。こんな能無しだとは思わなかったよ本当に。300年間小遣いなしでおかずも一品減らすからな」
「ひえー。そんな殺生な。神様仏様」
「死神が神頼みするんじゃねーよ」
女房は死神の頭を叩いた後、アリスに向き直り再び頭を下げた。そしてどこに隠し持っていたのかウィスキーのボトルをカウンターに置いた。
「あのぉ、これでひとつ無かったことにして頂けませんか。本人も反省しているようだし」
先程の剣幕が嘘のようにアリス相手にしなを作ってる。だが、亭主を見る目は鬼そのもの。死神は怯えてより一層小さく縮こまった。
アリスは貧相な顔の男を見た。被害者は彼である。
すると貧相な顔の男は両手を突き出しながら顔をぶんぶんと横に振っている。
「じょ、冗談じゃない。あんたらにはもう関わり合いたくない。これも返す」
貧相な顔の男は万年筆を放り出すと転がるように店を飛び出していった。
「被害者がああ言うんだから、無かったことでいいんじゃないかしら」
「おほほ。何か無理言ったみたいですみませんですね。ほら、てめえも頭下げろ」
ケツキックの音と同時に死神が床にぶつけそうな勢いで頭を下げた。
二人は何度も頭を下げながら店を出ていった。頭を下げる度にケツキックの音が響き渡った。
カウンターにはウィスキーのボトルが一本残されていた。あまり見ない銘柄である。ラベルは『BOWMORE THE DEVIL'S CASK』と読めた。アリスは得心がいった。これは悪魔が閉じ込められているという言い伝えのあるウィスキーである。どうりで死神が怯える訳だ。もしかしたらこのボトルの中にも営業成績の悪かった死神が閉じ込められているかもしれない。アリスはボトルをライトにかざしてみた。やや赤みのある琥珀色の液体の中でゆらゆらと光が揺らめいた。奥からグレートデーンが戻ってきて、床にごろりと横たわると鼻息を一つついた。
終わり
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